これは現在の雄物川河口付近の昭和5年ごろの様子。 このころの新屋地区は、なんとまだ陸続き!でした。 市街地にたび重なる水害を引き起こしていた雄物川の流れを変える一大事業が始まったのは大正6年のこと。 豊岩から、いまの秋田運河を通り秋田港に注いでいた流れを、直接日本海へと導くため、 新屋砂丘を削り、2kmあまりの放水路を造る大工事でした。 毎日、毎日、何百人もの人たちが働き、最新の掘削機械を導入しても、完成まで22年の歳月がかかりました。 昭和13年の通水爆破の瞬間には、約4万人もの観衆が集まったそうです。 放水路を造るために掘った土は、約1,490万立方メートル。 一面の湿地帯だった茨島と新屋の一部はこの土で埋め立てられ、工場地帯に生まれ変わったのでした。