
政庁は秋田城の中枢で、中心的な建物である正殿やその前面の広場では、出羽国内の政治や国内外から使節を迎えて儀式も行われていました。さらに、服従の証を示し、生活の安定を求めて定期的にやってくる蝦夷(えみし)の朝貢に対し、賜物や饗宴も盛んに行われていました。
この政庁域は、元慶2年(878)に起きた蝦夷の大反乱のために焼き討ちされました。その時に焼けた白壁材や炭などが、発掘調査によって発見されています。

高清水丘陵上に作られた秋田城跡は、土塀に屋根を上げて瓦で葺いた「築地塀」(ついじべい)で囲まれていました。その範囲は、東西南北約550mで総延長2.2qにもなり、これを「外郭築地塀」と呼んでいます。本体は土を数センチの厚さで叩き締めながら、基底幅2.1m、高さ3m以上に積み上げていました。初めて見る重圧な土塀と瓦葺きの屋根は、当時、この地方で生活し、「蝦夷」と呼ばれていた人たちに律令政府の力を示す象徴でもありました。

門の規模は、南北3間東西2間で、城柵官衙遺跡では主要な門であり、一般的に「八脚門」(はっきゃくもん)と呼ばれる形態です。柱の太さは、土色の変色した部分から約42pと推定されましたが、木材は腐食して残っておらず、部材の樹種や仕上げ状況などは不明です。

水洗厠舎跡は、東西3間×南北3間の総建物で南1間は廂(ひさし)になっており、建物の南と西には目かくし塀が設けられ、外から中が見えないようにしています。建物の中の、北の1間には3基の便槽が並び、それぞれから直径約45p、長さ約6mの木樋が緩い傾斜で北側の沼地に延びています。木樋の先端部には沈殿槽が掘りこまれ、流れでた排泄物は一旦沈殿槽に溜り、上澄みだけが沼地に流れ込むようになっています。排泄物を流す水は曲物などの容器に入っていたものを使用したと考えられます。

外郭東辺の外側に鵜ノ木地区という地域があり、そこから大規模な建物群や、井戸跡、沼跡さらに全国的な例を見ない古代の水洗式の厠舎(便所)跡が発見されました。
東西南北に計画的に配置された建物群は、寺の伽藍(がらん)配置を思わせ、さらに「寺」の字が墨書された土器が10数点発見され、寺院であったという考えがあります。一方、地形からみた建物跡の配列では寺とは考えにくいことから、役所であった可能性もあります。さらに平成6年にこの地区で発見された水洗の厠舎跡やその沈殿槽から発見された寄生虫卵の種類から、使用者が地元の人でないことと、大陸の人たちであった可能性があることから「迎賓館」があったという考え方も出てきています。
鵜ノ木地区は謎に包まれた重要地域です。
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