秋田市立佐竹史料館
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佐竹義宣の国替記 〜転封の経緯〜


 平成14年(2002)9月17日は、佐竹氏が秋田へ入部して400年の節目の年にあたる。

 秋田藩主佐竹氏は、平安時代の名門・清和源氏の新羅三郎義光(兄が八幡太郎義家)の嫡流で、義光の孫の昌義(まさよし)が常陸国佐竹郷(さたけごう・現茨城県常陸太田市)に居住し“佐竹氏”を名乗ったのにはじまる、八百数十年の歴史を誇る氏族である。

 常陸国時代の戦国末期、54万石余を領し、全国400近い諸大名のなかで第8位の領主であった佐竹義宣(さたけよしのぶ)が、徳川家康の時代となって秋田への国替えを命ぜられ、約470年居住した常陸国から秋田へ移住し、初代の秋田藩主となった。

 佐竹義宣が誕生した元亀(げんき)元年(1570)の年は、織田信長・徳川家康連合軍の、姉川(あねがわ)の戦いや一向宗徒の石山(いしやま)合戦の始まった年であり、義宣の父・義重(よししげ)も、北条氏や白川氏などと日夜にわたる交戦の最中であって、義宣は正(まさ)しく激動の戦国の世に呱々(ここ)の声をあげたのである。

義重ははやくから信長と友好を結び、武田信玄の嫡子勝頼が、信長や家康と対抗してゆくため、おなじ清和源氏の誼(よしみ)をもって義重に協力を求めてきたが、それを拒否し信長とくみ、天正(てんしょう)2年(1574)信長の奏請により、義重は従五位下常陸介に補任されたのである。

 信長亡きあと、義宣が秀吉と親交を深めるきっかけは、この時の義重と信長の交友に起因するわけである。その信長が本能寺の変で斃(たお)れたあと、賤ガ獄(しづがだけ)の戦いで柴田勝家(しばたかついえ)を破って天下人への足がかりを確定した秀吉のもとへ、義重はいちはやく使者を派遣し戦勝を祝っている。

 関白(かんぱく)となった秀吉と義重の親交は、嫡子義宣へと継承され、天正14年(1586)に義重(40歳)は隠居し、前年に那須資胤(なすすけたね・烏山城主8万石)の娘(のちの正洞院)と結婚した義宣(17歳)は、北条氏や伊達氏との抗争の真只中に立たされたのである。

 とりわけ、伊達政宗とは年齢も近く血の近い従兄弟(いとこ・義宣の生母は政宗の叔母)の間柄なのに、両者の睨み合いは熾烈となり、大決戦ともなれば、どちらかが滅亡する懸念となったときの天正18年(1590)の春、諸大名に対する秀吉の小田原北条氏攻めが指令され、義宣と政宗の交戦は永久に中断となった。すなわち、義宣は兵三千を率いて小田原へ参陣し、その武勲をもって秀吉から216,700貫文の朱印状を受け、豊臣政権下における常陸国の支配者の地位が保証されたのである。

 小田原の戦勝のあと、義宣は勝利の余勢をかって水戸城の江戸重通(えどしげみち)を攻略し、本城と属城十八砦(とりで)を占拠(せんきょ)。その余勢をもって府中城の大掾清幹(だいじょうきよもと)を滅ぼし、天正19年(1591)秀吉の奏請により従四位下侍従(じじゅう)に補任され右京大夫(うきょうだゆう)となり、秀吉から「羽柴(はしば)姓」を与えられた。義宣の常陸一国の統一は、不平不満を唱える南方33館の諸氏を一斉に謀殺に処して完成した。義宣弱冠(じゃっかん)22歳のときである。

 その翌年3月、義宣は居城を水戸城へ移したが、太田城へ残してきた正室(せいしつ)の那須氏の娘(正洞院)が謎の自害を遂げる事件が起こった。

佐竹氏のぼり旗

 その後、文禄の役(ぶんろくのえき)への参陣、伏見城の普請(ふしん)など、秀吉の過大な課役(かえき)を負(お)いながらも、秀吉の信望を得た義宣は、伏見に私邸を与えられ、文禄4年(1595)6月、秀吉から54万5千8百石の朱印状が交付され、天下8位の大大名(だいだいみょう)の地位に出世したのである。26歳の颯爽(さっそう)たる青年武将義宣の栄光に満ちた姿がそこにあったはず。 

 しかし、慶長3年(1598)8月、秀吉が伏見城において、“浪花の露”(なにわのつゆ)の如く63年の生涯を閉じると、途端に世情(せじょう)はせわしくなった。満を持していた家康と、秀吉の腹心の部下であった石田三成との葛藤が始まったのである。秀吉の旗下(きか)のもと、万全の地歩(じほ)を固めた義宣の立場も覚束(おぼつか)なくなっていった。

 関ヶ原の戦いを前にして、義宣はこれまで秀吉から受けた恩顧(おんこ)や石田三成との友情によって豊臣家西軍方となるか、それとも豊臣の時代は既に去り、これからは徳川の時代となるという“時代の先取り”として徳川家東軍にくみするか、迷いに迷ったはずである。父の義重や東義久などは、石田三成が武断派の武将の襲撃を受けたとき、義宣が救け出したことなどもあって、義宣が西軍に走るのではないかと、再三にわたり説得している。義宣にしては、秀吉子飼(こが)いの加藤清正(きよまさ)でさえ25万石、石田三成など20万石にも満たない19万4千石からすれば、己(おのれ)の54万5千8百石の大封は男冥利(おとこみょうり)に尽きる栄誉で、その恩義(おんぎ)を手の掌(てのひら)を返すように忘れ去ることは、犬畜生(いぬちくしょう)にも劣るものと考えたに相違ない。さりとて先見の明ある義宣には、東軍家康の勝利に終わることが必定(ひつじょう)と認識し、父の代から豊臣家と親交してきた佐竹氏は、東軍西軍の如何(いかん)にかかわらず、いずれは外様扱(とざまあつかい)となるものと自覚し、天下を分けた関ヶ原の戦いにも逡巡の末、あえて鳴かず飛ばずの態度で終止したと思われるのである。

 関ヶ原の戦いで大勝した家康の信賞必罰(しんしょうひつばつ)は迅速に実施され、大いなる恩栄(おんえい)に喜ぶ者、惨めな減封廃絶(げんぷうはいぜつ)に泣く者など、全国の諸大名には悲喜こもごもの世相が展開した。明日からの政局を案じた諸大名は、敵味方の別なく家康のいる伏見城へ上洛したのに、義宣は父の義重や東義久にそれを託したのみで、自ら家康の元へ謝罪に出向(しゅっこう)もせず、江戸上野の森に、10年前に謎の自害を遂げた正室(正洞院)のため、寺院の建立(こんりゅう)をはかっていた。ちなみに国替え後も久保田城下の手形大沢の地に同名の寺院を建てたばかりか、彼女の墓も常陸国耕山寺(こうざんじ)から改葬(かいそう)している。

 ともかく、義宣がようやく家康のもとへ上洛したのは慶長7年(1602)3月のことで、諸大名の処分もほとんど終わり、残るは佐竹氏とその一門だけであった。西軍の大将島津義広(よしひろ)や鍋島直茂(なおしげ)でさえ所領安堵(しょりょうあんど)となったので安易な気持ちでの上洛であったのかどうか。その時の旅装(りょそう)は五百人の兵卒を従えての戦闘行軍であったといわれる。いずれ、上洛の挨拶も無事終了し、伏見屋敷でくつろいでいた義宣のもとへ、5月8日に家康の使者が訪れて、佐竹一門の所領没収(しょりょうぼっしゅう)が下知(げち)され、義宣には出羽国(でわのくに)秋田への転封(てんぽう)が告知され、その朱印状は禄高(ろくだか)の明示(めいじ)のないものであった。関ヶ原の戦いが終わって2年、この頃になって上杉景勝との密約(みつやく)が露見(ろけん)したとする説もあるが定かではない。ともかく、応仁の乱(1467)以来百数十年の戦国時代は終わり、先祖以来約5世紀にわたり住み馴れた常陸国を去らねばならない義宣の気持ちははかり知れず、史書(ししょ)には“晴天の霹靂(せいてんのへきれき)”であったと記録されている。

 国替えの命を受けた義宣は、禄高不明と先行き不安のなかで、最小限の家臣を随行し、慶長7年(1602)9月17日、安東秋田氏の旧城・湊城(みなとじょう)に到着した。天下を分けた関ヶ原で不覚をとり、心機一転(しんきいってん)して悲壮感のこもる義宣の秋田の国づくりが開始された。久保田城の新築、幕命による全国一貫の道路造り、家臣団の刷新(さっしん)と久保田の町づくり、そして農鉱一帯の秋田の国づくりが実施されていった。今日の秋田市と、由利・鹿角の一部を除く秋田県の基礎が築かれたのである。

(秋田市文化財保護協会提供)
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