2001年7月27日号

あきた不思議発見伝4

秋田市の歴史に伝わる不思議な話、謎、謎、謎・・・


「お宝」が語る伝説…
中世に栄えた港、飯島穀丁

 昭和五十三年、飯島穀丁の水道管埋設工事の作業中、地下約一メートルの砂の中から、中世室町時代のものと考えられる青磁の碗、花瓶、すり鉢、茶臼、茶釜などが発見されました。青磁の碗は中国産、茶臼・茶釜は畿内地方産と考えられ、美術的にも価値が高い優品であります。
 中国産の青磁の碗やお茶をたしなむための道具は、当時においても非常に貴重なものであり、一部の有力者しか所有できなかったと思われます。穀丁に住んでいた有力者、それは、どんな人たちだったのでしょうか。閑静な住宅地から偶然発見された、この「お宝」に秘められた歴史を探ってみましょう。
 現在、飯島穀丁は、土崎の港から、北に約一・五 ほど離れています。しかし、様々な古文書や伝承から、「中世の時代、穀丁には港があり商家が軒を連ねていた」という姿が浮かび上がってきます。また、浄弘寺(現在旭北寺町)、満船寺(現在土崎港中央)など「かつて穀丁にあった」という寺伝を持つ名刹が多いことや、「穀丁」という地名自体、「穀物の集散地」という意味に通じることなどからも、穀丁の港としての歴史を感じさせられます。

商家や米倉が建ち並ぶ見事な港町の様子が・・・

 穀丁は昔、粒足川と呼ばれていた新城川の河口に築かれた中世の港であったと考えられます。
 江戸時代、土崎の港は仙北地方から雄物川を利用して運ばれてくる米の集散地であり、雄物川の近くに位置する必要がありました。江戸時代に米倉が建ち並んでいた穀保町・御蔵町も、かつての雄物川の川岸に位置しています。
 一方、穀丁は、現在、雄物川からは大きく離れています。このことには、かつての雄物川が穀丁の近くまで流れ、ここで大きくカーブして日本海に注いでいたという説や、中世安東氏の勢力範囲が仙北地方に及んでいなかったため、雄物川近くに位置する必要がなかったなど様々な説があります。また、穀丁が港としての役目を終えたのは、新城川が強い季節風で運ばれる飛び砂により流れを変え、川底が埋められ浅くなり、港には適さなくなったためとも伝えられています。
 中世の秋田市は、安東(秋田)氏の時代であります。日本海海運に活躍した海の大名とも言える安東氏の重要な港であった穀丁。商家や寺院、米倉などが建ち並ぶ見事な港町の様子が想像されます。穀丁から発見された青磁碗などの「お宝」の持ち主は、港の支配のために派遣された安東氏の重臣でしょうか。それとも日本海の交易で巨万の冨を得た豪商でしょうか。時代の移り変わりの中で姿を消した中世の港町・穀丁の町並へのロマンは果てしなく広がります。



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