2001年9月28日号

あきた不思議発見伝

秋田市の歴史に伝わる不思議な話、謎、謎、謎…


豊臣秀吉のお墨付き太平山谷の「天下一」能面

 秋田市の東部、太平山谷地区に伝わる、十五面の能・狂言面(十三面が市指定文化財)。これは地域の伝統芸能である山谷番楽に用いられるお面で、その多くが、室町時代から江戸時代にかけて作られたと考えられる逸品です。このお面の中に一つだけ、「天下一是閑」の銘を持つものがあります。このお面にはどんな歴史が刻まれているのでしょうか。
 文禄二年(一五九三)、豊臣秀吉は、能の流派である観世流と金春流の両家が所有していた能面の写し(複製品)を、角坊光盛に命じて作らせました。すると、どちらが本物か見分けがつかないほど精巧な出来ばえで、能を愛好していた秀吉は大いに喜び、角坊光盛に能面師としてのお墨付きの証、「天下一」を名乗ることを許します。
 この二年後、秀吉はまた、角坊光盛にも劣らない技の持ち主であった、出目助左衛門吉満にも「天下一」を名乗ることを許します。助左衛門吉満は、後に剃髪して「是閑」と名を改め、作品には「天下一是閑」の銘を入れるようになりました。
 数多くの名人・名工が活躍した能面師の世界で、秀吉から「天下一」の称号を直接許されたのは、この角坊光盛、出目助左衛門吉満だけです。
 能面は、秀吉の時代には、手柄を立てた武将への恩賞として用いられ、秀吉から素晴らしい能面を賜ることが武将として大きな誇りとされていました。その中でも、角坊光盛、出目助左衛門吉満の作品は別格扱いであり、非常に尊ばれたと伝えられます。
 では、加藤清正、福島正則など豊臣配下の名だたる名将にとっても羨望の的であった「天下一是閑」銘の能面は、どのようにして大平山谷にもたらされたのでしょうか。

山伏修験者が伝えた山谷番楽の源流

 山谷をはじめとした太平地域は、古くから太平山信仰にもとづく、山伏修験者の登山口として、多くの山伏が集い、行き交う場所でした。山伏は、全国に山と山を結んだ独自の交通路・ネットワークを持っており、信仰の旅を重ねる山伏の手により、様々な情報・文物が運ばれています。
 山谷番楽も、古くは太平山信仰の山伏修験者により伝承され演じられたと伝えられ、「天下一是閑」の能面も全国を旅する山伏の手で太平山谷にもたらされた可能性があります。ですが、全ては歴史の謎の中です。
 しかし、太平地区に色濃く残る神仏混交の史跡や伝承、地名などに修験道信仰の名残を思うとき、霊峰太平山の麓の杉木立の中、篝火が燃えさかる境内で、太閤秀吉お墨付きの天下一の技になる面をかぶり、屈強な山伏が舞い謡う。まるで歴史ドラマの一シーンのような山谷番楽の源流が、イメージさせられます。
 山谷番楽は、今日も、地域の人たちにより大切に継承されています。市の民俗文化財に指定されているこの伝統芸能には、地域の人々の思いとともに、秀吉、是閑、そして名を残さない多くの山伏が織りなす壮大な歴史絵巻が隠されています。

*能面については、中世の秋田家が伝えたという説もあります。


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