2001年10月26日号

あきた不思議発見伝

秋田市の歴史に伝わる不思議な話、謎、謎、謎…


秋田で食べた西洋料理にイザベラ・バードもご満悦!

明治十一年、日本が西欧社会からまだ「神秘の国」と見られていた頃、一人の英国人女性が日本を旅します。彼女の名はイザベラ・バード。病弱な幼少期を過ごし、体を強くするために海外旅行を始めた彼女は、「本当の日本を見たい」という願望を持ち、当時、西欧人にとって「未踏の地」であった東北・北海道地方を旅し、その記録を「日本奥地紀行」(原題「日本の未踏の土地」)として出版します。
 彼女は、旅の途中、秋田市で西洋料理を楽しんだことを紹介しています。おいしいビフテキ、すばらしいカレーなど。秋田市 で巡り会った西洋料理は、食べると「眼が生きいきと輝く」気持ちになるほど素晴らしいものでした。三か月を超える彼女の旅の中で、こんなにも食事に満足した記述は、ほかに見あたらず、当時の秋田市の西洋料理の充実ぶりが伺えます。文明開化から間もない時期の秋田市にどうしてそんな素晴らしい西洋料理があったのでしょうか。
 秋田市の明治初期の西洋料理店といえば、川反四丁目に明治十一年頃に開店したと言われる「与階軒」(與諧軒)が知られています。与階軒は、日本式の宴会を嫌った当時の石田県令(知事)の働きかけで開店した店であり、イザベラ・バードが西洋料理を楽しんだのもこの「与階軒」かもしれません。
 また、一般に牛肉を食べることが少なかった江戸時代においても、重労働が求められる鉱山で働く人たちは、体力をつけるために牛肉を食べていたと伝えられます。秋田市は、全国有数の鉱山を抱える秋田藩の城下町であり、寺内地区のように鶏や動物の肉を食べることを厳しく禁ずる地域があった一方、肉料理を中心とした西洋料理への抵抗感の少ない人たちも多かったのではないでしょうか。与階軒は開店当初、来店者は少なかったとも伝えられますが、市民の間には着実に新しい食文化が浸透し始めていたようです。

他のいかなる日本の町より、久保田が好き…

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」は、旅行中に書かれた手紙を中心にまとめられたものであり、素直な印象が綴られています。その中で、秋田市は「久保田(秋田市)は秋田県の首都で人口三万六千、非常に魅力的で純日本風の町である。〜(中略)〜美しい独立住宅が並んでいる街路や横通りが大部分を占めている。住宅は樹木や庭園に囲まれ、よく手入れした生け垣がある。〜(中略)〜このように何マイルも続く快適な郊外住宅を見ると、静かに自分の家庭生活を楽しむ中流階級のようなものが存在していることを思わせる」と書かれています。
 イザベラ・バードの感じた秋田の美しさは、目を見張るような建物や景勝地としての美しさではなく、手入れされた庭園や生け垣など、「家の外をきれいにして街を美しくしよう」という公共意識の高さ、心の豊かさから生まれたものだったのでしょう。秋田市の街を絶賛したイザベラ・バード。明治十一年七月二十三日付、久保田(秋田市)で書かれた手紙の後半には、こうも綴られています。「私は他のいかなる日本の町よりも久保田が好きである…」と。


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