2001年11月23日号

あきた不思議発見伝

秋田市の歴史に伝わる不思議な話、謎、謎、謎…


ベンチャー精神で上方にも出荷
秋田名物の「新屋うどん」!

秋田市西部の新屋地区は、古くから食品製造業が盛んで、かつて、上方(京都・大阪)にも評判の名産品がありました。
 それは、「新屋うどん」と呼ばれる干うどん。江戸時代後期の文政二年(一八一九)には、京都三条室町から注文があり、また翌文政三〜四年には、新屋の森川又右衛門、佐々木門十郎が、地元の「かたくり麺」を上方に出荷したとされ、「新屋うどん」の品質の高さが伺われます。
 干うどんは、江戸時代には、非常に高級品であり、藩主や富豪の贈答用として利用されていました。新屋地区に亀田(現在の岩城町)から製法が伝わり、うどんが作られはじめたのは宝歴年間(一七五一〜一七六四)で、稲庭うどんの製法を学び品質が大きく向上したのが文政の頃とされています。当時、稲庭うどんは、すでに殿様の評判の贈呈品として知られ、ほかにも全国各地で有名なうどんが、製造されていました。

 今回は、高級贈答品として品質、ブランド・イメージが求められる「干うどん」業界に遅れて参入した「新屋うどん」が、なぜ、贈答品の需要が多く全国から優れた商品が集まる上方で、短期間に評価を得ることができたのかを考えてみたいと思います。

名物うどんを生み出す
新屋衆の心意気…。

 まず、理由の一つには、新屋地区が、うどんづくりに欠かせない水と塩に恵まれていたということがあります。江戸時代、新屋から浜田、下浜の海岸地域は、塩焼製塩が盛んであり、たくさんの塩が作られていました。うどんは、小麦粉を塩水でこねて作りますので、質の高い湧き水とともに良質な塩の産地であった新屋は、うどんづくりに適した場所でありました。また、早くから酒造りなど、食品製造業が盛んで、食品を作る技術・知識が豊富だったことも、良質なうどんづくりのための大きな支えになったことと思います。
 しかし、様々な資料・伝承などから浮き彫りにされる、新屋うどん成功の何よりの秘密は、新屋の人たちのエネルギッシュな販売・PR活動でした。新屋うどんの質が向上した文政二年頃、商品PRのため、試食用のうどんを大量に集め、京都方面に船で運ぼうとしたと伝えられます。結果は船が途中で落雷にあい果たせなかったようですが、実現すれば、一大キャンペーンとして話題になったことでしょう。また、うどんの販路拡大のため、多くの製造者が合同で、多額の融資を願い出たという記録もあります。これは並々ならぬ勇気と決意が必要なことです。
 このように、新屋うどんの営業活動には、良質の製品づくりに努力するとともに、斬新な発想と大胆な行動によりユニークな販売戦略を展開する、現在のベンチャー企業にも通じる起業家としての熱意が伝わってきます。
 名産品として盛んに製造された新屋うどん。現在は、新屋にそんな名産品があったことすら忘れられかけています。しかし、秋田名物「新屋うどん」誕生にまつわる様々なエピソードは、チャレンジ精神とバイタリティーにあふれた「新屋衆の心意気」を物語る歴史の一コマとして忘れられないものです。


Copyright (C) 2000秋田県秋田市(Akita City , Akita , Japan)
All Rights Reserved.
webmaster@city.akita.akita.jp