2002年1月25日号

あきた不思議発見伝

秋田市の歴史に伝わる不思議な話、謎、謎、謎…


久保田城下町の核となった
 土崎にもうひとつの四百年

安東氏が築き、入部当初佐竹氏も居城とした土崎・湊城跡。
昭和前期、写真のようなお堀が城跡の面影を伝えていました

高清水の岡の北西に位置する後城遺跡。中世以前の土崎の港に関係した町の跡と考えられるこの遺跡の発掘調査により、とても興味深い事実が明らかになりました。
 それは、十五〜十六世紀を中心に栄えた後城の町が、十七世紀にはいると、町がなくなってしまったのではないかと思うほど陶磁器などの出土遺物が少なくなり、人々の生活の跡が認められなくなってしまうということです。十六世紀と十七世紀の間を境に、突然、姿を消した中世後城の町。発掘調査により明かになったこの事実は、どんな歴史を物語っているのでしょうか。


大町、茶町、米町…
土崎が町ごと移転

 関ケ原の合戦の後、常陸から秋田に国替えとなった佐竹義宣公は、新しい城を神明山(現在の千秋公園)に築き、その周囲の荒れ地や湿地が広がっていた地域に壮大な城下町を建設しました。このようにして生まれた新しい町・久保田が今日の秋田市の原型になったことは広く知られています。
 この新しい城下町建設の大きな柱となったのが、土崎の町を町ごと久保田に移転するということでした。久保田の町の中で、大町、茶町、米町、酒田町などが土崎から移った町。また、後城遺跡で確認された中世の後城町と隣り合っていた前城町も、久保田の町づくりの際に移転し、それぞれ城町、馬口労町になったと言われています。
 この移転は、菅江真澄の「水の面影」に「跡かたなく久保田へ移転した」と紹介されているように、まさに、町ごとそっくり移動したものであり、後城遺跡の調査成果は、それを裏付けるものであると言えます。佐竹氏が秋田へ来る前の土崎がどんな町だったのかは、あまりよくわかっていません。しかし、大町など土崎から移転した町が久保田城下町の産業経済に大きな役割を担っていたことから、非常に栄えた町であったことがうかがわれ、中世土崎を築いた安東(秋田)氏、そして土崎の町の人々の努力と活力が感じられます。

繰り返される
無限のまちづくり

 佐竹氏が秋田へ入部したのは慶長七年(一六〇二年)。翌八年には久保田城築城に着手、九年に建都と、歴史的大事業の幕開けとなりました。
 佐竹氏の入部から今年でちょうど四百年。佐竹氏、城下町である旧久保田の町にとって記念すべき年であるとともに、佐竹氏と入れ替わり秋田を去った安東氏、そして町ごとの移転という困難を通じて久保田建設に大きな役割を果たした土崎の町にとっても、もうひとつの四百年と呼ぶべき歴史の節目となる年であると言えます。
 久保田の町を建設し、今日の秋田市の発展の礎を築いた佐竹氏と久保田の人々。そして建都において久保田の核となった土崎の人々とその町の繁栄を築いた安東氏。
 まちづくりは、長い時の中で繰り返される無限のリレーであることを、もうひとつの四百年のドラマが物語っています。

久保田の町を建設し、
秋田市の発展を築いた佐竹義宣



Copyright (C) 2000秋田県秋田市(Akita City , Akita , Japan)
All Rights Reserved.
webmaster@city.akita.akita.jp