2004年1月5日号

久保田城下再現


 慶長7年(1602)、常陸(現茨城県)から秋田へ国替えとなった佐竹義宣は最初、安東秋田氏の居城だった土崎の湊城に入ります。しかしそこが手狭だったため城下の移転を考え、位置や地形から久保田の地を選び、神明山(現千秋公園)に城を築くことにしました。
 新しい城の建設に着手したのは慶長8年。翌9年に城は完成し、周囲では城下の町割りが始まります。神明山の周りに広がる川尻村、楢山村、保戸野村、手形一帯が、いわば城下都市計画の地域となりました。
 町割りは慶長12年(1607)ごろから本格的に始まり、町並みがそろったのは寛永年間(1624〜43)といわれます。 旭川をはさんで東側を武士の住む「内町」、西側を町人の住む「外町」に分け、外町の西側には寺町を配して防備の役目も持たせました。
 外町には土崎湊から大勢の人たちが移り住み、まちづくりを担いました。湊の富裕な商人たちが移転し、いち早くできたのが大町一〜三丁目。それから4〜5年遅れて茶町もでき、大町・茶町は城に近い商業の中心地としてにぎわいました。
 外町には、米や魚など特定商品の独占販売権を持つ町がいろいろありました。

城下町のCG制作はゼロニウム・グラフィックス社(チャレンジオフィスあきた内)

●大町/絹、布、木綿、麻糸、古手(中古品)類、小間物などを独占販売
●茶町/茶、紙、綿、砂糖、畳表、傘、位牌、扇子などを独占販売
●米町/上米町と下米町。土崎湊の穀丁の人たちが移り住み、米を独占販売
●肴町/上肴町と下肴町。土崎湊の肴町が移ってきた町で、生魚、干魚、塩魚などを独占販売
●通町/土崎湊と久保田城を結ぶ重要な通り道という意味の町名。近郊農村から城下への通路にあたるため、野菜、薪、柴などの常市が開かれていました。
●鉄砲町/鉄砲鍛冶が住む町。天明四年(1784)ごろには、あんず、りんご、なし、栗、青梅など、仙北3郡と河辺郡の川下げ果物の販売を独占
●鍛冶町/築城に奉仕した土崎の18軒の鍛冶が土崎から移住し、城下三里四方において農具などの鍛冶細工を独占
●本町四丁目/絹布、木綿切売の販売権
●本町五丁目/煙草座(たばこ店)の独占権
●本町六丁目/指物師、挽物師の町
●八日町/塩の販売
●馬口労町・向馬口労町/荷物を運搬する伝馬人足と旅宿の町。毎年馬市も開かれ馬喰衆で賑わいました 
●亀ノ丁/藩政末期には上亀ノ丁に芝居小屋、寄席場、料理屋が開かれ、寄席は明治初期まで続きました
●豊嶋町/料理屋の独占
●四十間堀川町/寺町から旭川へ注ぐ「四十間堀」と呼ばれる水路があり、これに由来した町名
●城町・新城町・酒田町/築城や町割りの作業に協力するため土崎から移転した人たちがつくった町


Copyright (C) 2004秋田県秋田市(Akita City , Akita , Japan)
All Rights Reserved.
webmaster@city.akita.akita.jp