2004年10月8日号

くぼた旧町名物語・まちの生い立ち


(6)職人のまち編
久保田職人の腕が鳴り
城下のモノが生まれた


 外町には、家督権を与えられ繁栄した商人町とともに、職人町もありました。
 生活に欠かせない、鍛冶、大工、桶屋、染屋、髪結など、三十種類以上のさまざまな技能をもった職人たちが、このまちで技を磨き、物を作り、生活していました。

外町の町割り


土崎湊から移り住んだ職人たち

 寛永六年(一六二九)に土崎から移ってきた鍛冶町(上鍛冶町・下鍛冶町)は、その名のとおり、鍛冶職人のまち。久保田城の築城に奉仕した土崎湊の鍛冶十八軒が久保田に移って、鍛冶町をつくりました。
 鍛冶町は、築城に奉仕した見返りとして、元和年間(一六一五│一六二三)に藩から「鍛冶家督」という特権を与えられました。これは、城下三里(約十二?)四方における鍛冶細工の仕事を独占するもので、藩の厚い保護を受け、農具などの金物の製造を一手に引き受けていました。
 同じく慶長・元和ごろに後城町(現在の寺内後城)の一部が移ってつくられた城町の名は、寺内にあったときの町名に由来します。ここには、大工、左官などの職人が多く暮らしていました。


そのまちに暮らす職人が町名の由来

 鉄砲町、大工町、船大工町は、そこに住んでいた職人の職種が町名の由来です。
 通町の隣りに位置する大工町は、「番匠町」とも呼ばれ(番匠=大工)、藩の仕事をしていたようです。
 旭川沿いの川端一・二・三・四・五丁目に続く船大工町は、六丁目川端と言われ、旭川の水運に関わって発展しました。当時はここに船大工がいるほど、旭川は船でにぎわっていたのです。
 川端の旭川岸は、県南方面から川を通って運ばれてくる物資の荷上げ場として使われ、毎日数十の船が上り下りして、米やくだもの、木材などを運んできました。そのため、船大工町には米蔵や材木屋がありました。


髪結床は町人いこいの場

 「指物町」とも言われた本町六丁目は、指物師、挽物師、桶屋で構成されたまちでした。木工品が売りのこのまちは、その後「家具のまち」となり、今もその面影を残しています。
 柳町には、佐竹氏に伴って秋田入りした桶屋が住んでいました。藩御用の桶屋がいたことから、「桶屋町」ともいわれました。  
 茶町筋の西隣りに並ぶ上亀ノ丁・下亀ノ丁は、小商人と職人が暮らすまちで、桶屋、石切などのの職人が住んでいました。下亀ノ丁には火のしと呼ばれる炭火で加熱するアイロンをかける職人がいたほか、髪結床(理髪店)も多くあり、町人のいこいの場としてにぎわいました。

 自分の腕一つで城下の人々の暮らしを支えた、久保田の職人たち。その熟練の技、威勢のいい声、にぎやかな作業の音で、まちは活気にあふれていたことでしょう。
 また、同じ職種の人間が集まって暮らす職人まちは、それぞれの技術を師から弟子へ確実に伝えていくという、後継者育成の役割も果たしていました。


鍛冶町文書(中央図書館明徳館蔵)

 鍛冶町に残る町内の記録。この中の1冊「歳代記」には、鍛冶町の町掟が記されています。神事に関することのほか、炭を買いだめしてはならない、職人を横取りしてはならないなど、鍛冶職人として守るべきことが定められています。この掟を破ったものは、本人はおろか師匠まで鍛冶の仕事ができなくなる厳しいものでした。
 ここには、個人ではなく、職人集団としての町全体の繁栄を願う共存共栄の考え方がみられます。


久保田の職人

●大工 ●木挽(こびき) ●檜物師(ひものし)(ヒノキで薄い曲げ物を作る)
●指物師(さしものし)(木の板をさしあわせて組み立て、机やたんすなどを作る) 
●鍛冶 ●石工 ●金具師 ●鋳物師
●提灯張(ちょうちんはり) ●傘張(かさはり) ●表具師 ●張付師 ●仏師
●染屋職人 ●仕裁師 ●袋物師 ●織り師 ●研師
●鞘師(さやし) ●柄物師 ●紙漉(かみすき) ●鏡研(かがみとぎ) ●鼈甲(べっこう)細工
●塗物師 ●筆師 ●畳刺 ●桶屋 ●桐油職(とうゆしょく)
●煙管張(きせるはり) ●足駄指 ●髪結 ●莨切(たばこきり)(たばこを切り刻む)
●挽物師(ひきものし)(ろくろを使って木を削り、いすの足や器などを作る)
●綿ふかし ●壁塗


城下町・御休み処

髪結が奉行所の聞きこみ!?

 江戸時代の髪結、今で言う美容院や理髪店は、髪を整えるほかに、もうひとつ、とても意外で重要な役割を持っていました。
 当時の髪結床は、風呂屋とともに町人のいこいの場で、社交サロンのような場所でした。町人たちはここで、ほかの客や髪結と近所の出来事やうわさ話など、たわいのない話で盛り上がり、おしゃべりに花を咲かせていました。
 ここに目を付けたのが町奉行所。髪結はすべて「悪者吟味」を任務とするとし、文化13年(1816)には、3人の髪結を町同心の目先役に選び、聞き込み係として町の警察機能の末端を担わせていました。そして、この目先役に選ばれた者には、髪結仲間から供出されたお金の中から手間賃が与えられたのです。
 確かに、客商売である髪結は、客本人についてはもちろんのこと、客とのやりとりや客同士のやりとりの中から豊富な町の情報を得ることができます。このことをうまく利用して、町奉行所は庶民の世界からさまざまな情報を集めたのでした。文政元年(1818)には、久保田のまちに60人の髪結がいたそうで、その情報収集の力はとても大きなものだったと言えます。
 しかし、中には奉行所の同心と知り合いであることをいいことに、料理屋で言いがかりをつけ、町を追い出された者もいたそうです。まさに「お上の威光をかさにきた」行い。時代劇で見たことがあるような…。


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