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かっぱの絵
その8
平尾鳥姫と玉椿

 昔、平泉の戦に亡んだ源義経の家来、熊谷太郎の四男・乗秋は、主人の跡を慕い巡り巡って平尾鳥にたどりついたド。
 細田山を居所として城を築き、また菅生田山には塁を造り、道を開き、そのあたり一帯を治めたド。そして、種沢太郎、水沢館主などと並びおおせられる勢いとなり、乗秋より数代は泰平の世が続いたド。しかし、永禄年代(約450年前)平尾鳥式部太夫の代に至って、永久に栄え行くかに見えたこの城が、不慮の災難に見舞われたド。
 城主の式部太夫には、平尾鳥姫という美しいうえにやさしく、賢い一人のお姫様があったド。
 姫は明星のように家来たちにあがめられ、父の式部太夫は無上の宝と姫をいとしんだド。ところが、当時、豪勇の聞こえが高かった豊島玄蕃守は、この姫のうわさを聞きつけ、あととり息子次郎重村の嫁に貰いたいと、たびたび使者を差し向けたド。
 しかし、式部太夫にとっても同じく跡継としてかけがへのない一人娘なので、この相談はうまく進みそうもなかったド。
 意地になった玄蕃守は大いに怒り、大軍を率いて平尾鳥城を攻めたド。
 まず先鋒は、進路を太平山麓にとり、館長根を下って旗引長根に攻込んだド。しかし、城壁が正面の田んぼを隔てて高くそびえていたので、攻め入ることができなかったド。そこで、引き上げて白ケ沢からはるかに本城を望み、ふみ止まって夜襲をかける作戦を立てたド。
 数百騎の一隊は、陣立も正しく今のモッペ坂で騎馬モッペをつけて、ひそかに中山から峰伝いに進み、本隊は朝から平尾鳥川を越えて真正面から攻撃をしかけたド。
 昼の間は、平尾鳥方が優勢であったが、夜になってから騎馬の先鋒隊が峰伝いに今の馬落しと呼んでいる場所から城の後に迫ったド。暗い夜で、人馬が城の溝穴に真っ逆さまに落ちたものもいたド。
 平尾鳥方ほ、正面の本隊の攻撃を防ぐことに気をとられて、城の背後の防備が手簿だったド。騎馬隊は、その隙に乗じて一挙に攻め込んで、城に火を放ったド。
 平尾鳥方は、不意を討たれてうろたえ、敗れてヘグリ(地名)から菅生田城に逃れて立籠ったド。
 平尾鳥方は、この一戦に勢力をとりもどさんものと、雄々しくもかの白百合の花にもたとうべき平尾鳥姫も、父の城主ともどもに家来たちを励まして大いに奮戦したが、数の多い豊島勢の敵とはならず、カも尽き果て、自ら城に火を放って平尾鳥一族は滅亡してしまったド。
 その城跡には数十年前まで、姫が愛したであろう玉椿が、所々にまばらに生えて当時を語るかのようであったド。
とっぴんぱらりのぷ!


かっぱの絵
民話への招待
 この物話は、現在の山本郡と南秋田郡、男鹿市、秋田市、雄和町の一部にわたる一帯に秋田安東氏が勢威を振るっていたころのものです。白根館、津波岐館(椿川館ノ下地内)などは、安東氏の支城である白華城(秋用市豊岩豊巻)の前線基地のような役目をしていたものと伝えられでいます。
 平尾鳥氏は、建久年間(1190年)今から820年ほど前に平尾鳥城を築き、また、相手である豊島氏は、永正3年(1506年)今から510年ほど前に、当時の桑木城に人って豊島氏を名乗り、豊島郡を領地として、勇名を馳せ、その勢力範囲を押し拡げたものです。
 平尾鳥氏は、熊谷太郎の四男である乗秋を祖とし、また、豊島氏は畠山二郎重忠の流れであり、ともに鎌倉時代の武士の名門です。
 ちなみに豊島玄蕃は、永禄年代(1558〜1569年)の約10年間に平尾鳥城、津波岐館、さらに白根館を相次いで落城させ、続いて元亀年代(1570〜1573年)に種沢城をも攻略しています。
 戦乱の世の常、同族同志でも血で血を洗う時代。多くの落城の悲話が語りつがれています。河辺町より臼ケ沢に至る間は、新空港となり、また、菅田山も昔を偲ぶよすがもありません。

 

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