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かっぱの絵
その14
お不動さんとお殿さま

 戦に明け暮れて、乱れに乱れた世の中もようやく治まり、今の大正寺あたりが、亀田の殿さまの領地であったころの話っこなんだド。
 新波のお不動さんのご霊験がまことにあらたかであったので、そのあたりの里人たちの信仰は、それはそれは驚くほどあついものがあったんだド。
 ある年のこと、殿さまは領内の村々の作柄や村人たらのくらし向きを見てまわりたいと思ったんだド。新波のお不動様のお宮の前にさしかかった時、馬に乗ったまま鳥居をくぐって参道を進まれたんだド。
 ところがどうしたことか、お宮の前で殿さまが馬から落ちてしまったんだド。「さあ、大変なことがおこった」と大勢の家来の者はもとより、土下座して殿さまのお宮詣でをお迎えしていた神主をはじめ、村の主だった人々は、いよいよおそれ入って顔もあげられなかったんだド。
 お付きの家来が、とっさの出来ごとにあわてで走り寄ると、殿さまは一人ですっと立ちあがられたんだド。おけがのない様子で、ほっとして顔をあげながら殿さまを見ようとした折しも、殿さまはお顔の色をかえられて「我が領内にあって、しかも多大なご庇護を受けながら、その領主たる者を落馬せしめるとは何ごとぞ、誠に不届千万なり!」と、大きな声で叫ばれ、大変なお腹立ちだったド。
 殿さまは、きっと家来たちや村人たちが大勢いる場所で、しかも神さまの前のことでもあり、痛いことよりはずかしさのために、一層おこられたんだべ。
 ところが、殿さまの大きな声にまるでこだまするかのように、奥宮あたりから「われは、亀田の領土になどは住んでおらぬぞ!」という声がしたんだド。
 これには、殿さまをはじめ、家来たちや、どのようなおとがめを受けるかと心配していた神主たちもおどろいてしまったド。殿さまの言いつけを受けた家来たちと神主は、ご神体のありかを確かめに奥殿に入ったんだド。
 家来の中に頭のいい人がいて、神さまが、まことに亀田の領地にいるかどうかを確かめるためにと、奉書の紙をご神体の下に差し込んでみたんだド。そうすると驚くことにご神体の下の紙は、前後左右に動いたんだド。
 殿さまは、ご神体が宙に浮いたことを知り、その霊験のありがたさと、このような尊いご神前を乗馬で通る非礼にも格別な怪我のなかったことに深く感激されたんだド。
 その後は、神社の改築をされたり、お祭りの折々に、さまざまな供物を奉納されて崇敬され、また代々の殿さまも益々尊崇されたんだド。
とっぴんぱらりのぷ!


かっぱの絵
民話への招待
 この物語も、新波神社縁起によるもので「御領主伊豫守重隆公或時当社御参詣ノ節、門前ノ橋二於テ…」の書き出しで述べられています。
 岩城伊豫守重隆公は亀田藩二代目の藩主で、寛永4年(1627年)に能代の桧山に出生、2歳で藩主となり、宝永4年(1707年)に江戸で死去された方で、真田幸村の孫に当たられます。
 従五位下伊豫守に任官されたのは明暦2年(1656年)、28歳ですが、領内の巡視はたびたび行っております。元禄10年(1697年)に新波神社を再建し、遷宮の翌日にご親拝になり、宝物数品を奉納されたことからも、元禄初期か、それ以前のできごとと思われます。
 この物語に似た話が、協和町の唐松神社の縁起にもあります。
 現在の唐松神社は、低地に建っていますが、佐竹候の国替えのころは、裏手の唐松山にあったのを藩主義処公が領内巡視の折り、下馬札を無視して里を過ぎようとして落馬されました。義処公は怒って平地に神社をおろして建てさせました。
 その後の巡視の際にも同じ事件が発生し、地を掘り下げてお宮を建てさせたことなどを考えると、興味深いものがあります。

 

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