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かっぱの絵
その18
岩見に飛んだ観音さま

 昔、昔、雄物川のほとりにある黒瀬村は、日照りが続いて、堤の水も田んぼの水も枯れてしまったんだど。村人たちは、不安とあせりで「最後の頼みは神様しかない」と話し合っていたど。
 毎日、観音堂に雨乞い祈願を続けても雨は一向に降らず、村人たちは失望していたど。
 そのような時、肝煎(きもいり)で御中小姓御用人を兼ねている亀田藩重役・工藤要左エ門という人が、旱害(ひでり)の被害状況を調べに来たんだど。あまりのひどさに要左エ門は、早く殿様に報告しようと道を急いだど。途中、要左エ門は、道すじにある観音堂に立ち寄ったど。
 生まれながら剛気な要左エ門は、「村人が毎日のように雨乞いをしているのに、ご利益(りやく)もないとは何事ぞ!」と腹を立てたど。「願いがかなわぬものであれば、こうしてくれる」と、堂内から鉱石でできた観音菩薩像を持ち出し、境内の井戸に投げ込んで亀田へ向かったど。
 ところが、君ケ野に入る前あたりの、俗称「カンカケ」という所まで来た時だど。今まで雲一つない空が、見る間に曇り、墨を流したように暗くなったど。滝のように降りそそぐ雨に、さすがの要左エ門も、亀田へ向かうことを断念し、黒瀬村へ引き返したど。その途中、あの観音堂に再び立ち寄り、「この大嵐は、観音像を投げ捨て、神威を汚(けが)したために起こった」と、非礼の行いを悔いたど。そして、雨乞いの願いを聞いてくれたご神体におそれを感じ、井戸から拾いあげて堂内に安置しようと近寄ったど。
 ところが、その瞬間、すさまじい音と、稲妻のようなものすごい光を発したんだど。それと同時に、ご神体は井戸の中から、雨風(あまかぜ)とともに、流星のごとく太平山の東方上空へ向かって飛び去ったど。
 やがて雨もやみ、大嵐は過ぎ去ったど。黒瀬村の田や畑は生気をとりもどし、人々が恵みの雨に感謝するかのように、きれいな虹が輝いたんだど。
 そのことがあったずうっと後のことだど。黒瀬村の太平山講中の人々が、大平山登山に行った帰り、築紫森に立ち寄ったんだど。参詣者たちはロをそろえて、黒瀬村から飛んで来たと伝えられる観音様と、まったく同じ親音様が築紫森の洞窟の中に祭られていたのを不思議な因縁と感じて拝んできたことを話したど。
 しかし、今はその観音様が、なぜかなくなってしまっているど。
とっぴんぱらりのぷ!


かっぱの絵
民話への招待
 この物語は、文政2年(1819年)ころのできごととして伝えられています。
 現在、町屋敷にある保食神社(観音様と呼んでいる)の草創にあたるもので、黒瀬から君ケ野を経由して亀田に通ずる唯一の道路です。
 山道の黒瀬側の入口から、200から300メートルくらいの区間を、今も「お宮道」と呼んでいます。その付近の山に「観音林」という所があって、昔の観音堂があった場所だと言われています。
 工藤要左エ門は、明和元年(1764年)3月に生まれ、文政7年(1824年)9月23日逝去されました。繋・重兵家の9代の祖にあたり、亀田藩七傑の1人として賞讃された偉人です。
 要左エ門の業績は、旧大正寺村の地区内はもとより、亀田藩内の開墾、水利施般の整備、道路の新設や改良を行って、藩政の産業、交通にカを注ぎました。名字帯刀を許されて侍に取り立てられ、用人席に連なって家老の下(もと)で庶事を処理していました。御竿頭とは、土地の測量・地籍検査などの役人を取締りする役目です。

 

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