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かっぱの絵
その19
田村麿の鬼退治

 高尾山麓の村は、タ食の仕度で忙しかったど。村はずれの地蔵堂の中では、遊び疲れた村の童子(わらしっこ)たちが気の抜けたジャンケンをしていたど。
 そこに口が耳までさけ、眼をギョロリとさせた女の鬼が現れ、童子の一人を口にくわえ、両脇に一人ずつ抱え込むと、山めがけて走って行ったど。
 子どもをさらわれた親たちは、夢中になって追いかけたが、神通力のある鬼に追いつけずに、地蔵堂まで帰ってきたど。親たちは地蔵様にうらみ、つらみを言ってわめき立てたど。そして、ご利益(りやく)のない石の地蔵様に腹を立て、カまかせに床に投げつけたんだど。
 ところが、地蔵堂の裏手に蝦夷征伐(えぞせいばつ)に来ていた田村麿将軍の軍勢が、そのさわぎを聞きつけ、将軍の耳にも入り、親たちからくわしい話を聞いたど。
 鬼の住むところを、ただ高尾山とばかり言う親たちの話だけではどうにもならず、君ケ野の物識りである肝煎(きもいり)の権三を呼んだんだど。「その鬼は米子鬼というて、沢山のけん族を従え、高尾山を根城に村々を襲い、村の童子を何十人もさらって、村人は困っているし」との話に、「これも蝦夷征伐の一つじゃ」と案内人を雇い入れ、その夜のうちに高尾山をめざして出発したんだど。
 その日は、ぢようど正月15日。雪を踏む音がキシ、キシとなり、沖天の寒月の明りを浴(あ)びて腰まで埋まる雪をも、ものともせずに前進したんだど。道案内に頼まれた弁助という若者は、恐しさで身をすくませ、将軍の励ましでようやく鬼の住む窟付近までたどりついたど。「将軍様、あそこに見える一本杉の左にある井戸が窟の入口でごぜえますだ。俺ァこれで失礼させてもらうだ…」といって村へ逃げ帰ったんだど。
 将軍は家来を励まし、先頭に立って井戸の水面近くの横穴に入り込んで進むと、鬼どもの「今日、お頭(かしら)のさらって来た餌ものは、まるまる太ってうまそうだぞ…」、「近来にない大漁だぞ」と話し合う声が賑やかに聞こえて来たんだど。
 「天下様の命で蝦夷征伐に来た坂上田村麿だ。極悪非道の鬼ども、正義の刃(やいば)を受けて見よ…」と天子様から拝領した『鬼倒丸』という大太刀で鬼女の首を打ち落すと、鬼の家来どもは右往左往。不意を突かれて降参したんだど。
 降参した鬼に村の子どもを背負わせて君ケ野へ引き上げだど。
 子どもを返してもらった親たちは大喜びで、田村麿将軍を伏し拝み、戦死した家来たちを祠る社を建て、滝の宮神社がそれなんだど。
 生捕りにした鬼どもに「鬼の一番嫌いなものは何だ…」と問いつめると「タラの木が恐い」と言うので、鬼払いのマジナイにタラの木の小枝をニつ割りにして、戸口に掛けることにしたんだど。
とっぴんぱらりのぷ!


かっぱの絵
民話への招待
 この物語は、木村与之助氏の著書「伝説の四季」に納められている『坂上田村麿将軍が高尾山で鬼退治』から評録したもので、岩城町から取材されたものです。
 鬼払いのマジナイとして、正月15日にタラの木の小枝を2つに割って、平年には12月、閏年(うるうどし)には13月と墨で書いて藁(ワラ)でなった、細い縄にはさんで各家の戸ロ、戸口にかけています。
 この風習は、本荘由利地方だけでなく、雄和町にも3、40年前ころまで見かけたものです。発祥は君ケ野部落だと伝えられています。
 鬼の正体については、古老の話によると、女米木村に住んでいた米子という女賊であった…、とも語られていますが、さだかではありません。
 坂上田村麿は、桓武天皇の御代延暦16年(797年)征夷大将軍に任ぜられて、現在の東北地方一帯で蝦夷征伐にあたっております。
 町史の年表には、延暦年代(782〜805年)に坂上田村麿東征の折、京極兄弟(萱ケ沢の長円寺の祖、女米木の大王寺の祖)が従軍して戦が終わった後に、将軍の命令によって土着して開拓に従事したとあります。また、小白川家の祖も討伐の先達に当たったとあります。

 

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