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かっぱの絵
その32
槍(やり)と土和沢(どわざ)の主(ぬし)

 雄物川のほとり、下黒瀬村にあったことなんだド。 この村などを治める殿様は、信濃国川中島より処替えとなって、亀田に移ってきた岩城家であったド。表高は、二万石と少ない石高で、それだけ米のとれる田んぼがなく、実高は一万七千石くらいしかなかったド。亀田藩のくらし向きは、決して楽ではなかったんだド。

 そこで殿様は、主だった家来衆に相談をかけて、荒れた原野を切り拓いて田んぼをつくる仕事に力を入れたんだド。開田を行うためには、土が肥え、水の便がよいところで、しかも、高低を整えて、田を順序よく配列するために、測量の抜術が必要であったド。技術を持った人を選び出すのが、また苦労であったんだド。  ようやく、その役目に選ばれたのは、繋村の肝煎であった工藤要左エ門という人であったド。殿様のお目がねににかなつた人だけに、亀田領内31カ村の開田はもとより、ため池や道路、水路のことも手がけて、藩の財政のために大きな力になったド。

 その要左エ門が晩年の頃になって、下黒瀬村に新しい田んぼをつくることになったんだド。今の町屋敷の一部と下谷地、野田、野田谷地(秋田市下浜)を開田することを村人たちと話し合い、まず水をたくわえるため池をつくることにしたんだド。  数十町歩にわたる新田の堤。現在でも驚くような規模の土木工事であったんだド。ところが、ため池の予定地となった隣の沢は、土和沢と呼ばれる所で、うっ蒼たる巨木の生え繁る密林地帯。しかも、村の老人の一人が仕事で山仕事に出かけて大蛇に襲われ、連れて行った飼い犬があわれにも丸のみにされたド。 驚きあわてて家に帰りついた老人も、その時受けた毒気が原因で間もなく死んだとの言い伝えがある沢だったんだド。

 村人たちは、そのような恐ろしい場所での土木工事には出られないと尻込みをして、なかなか仕事に出てくれなかったド。そこで要左エ門は、生来から剛気な人であったので「大蛇なんかなんのその」と、亀田、道川、大正寺、下浜などより多数の人夫を動員したド。帯刀の要左エ門は、槍を現地に突き立てて「大蛇が出たら一突きで退治してやるぞ!」と気声をあげ人夫たちを叱咤激励して工事を進めたんだド。 ところが、残念なことに要左エ門は、築提工事を半端にして病気になり、工事全体が中止となってしまったんだド。

 今に残る堤塘の高さや、その幅などから、その規模の大きさがうかがわれ、要左エ門の剛気さが今でも語り継がれているんだド。

とっぴんぱらりのぷ!


かっぱの絵
民話への招待

 岩城氏は、桓武平氏の平繁盛が祖で、子孫成衡の代に岩城の国平城に居住し、岩城氏を名乗っています。 十五代の子孫貞隆は、佐竹義宣の弟であったことから、関ケ原の戦いに徳川方に味方しなかったことで所領を没収されましたが、その後元和2年(1616年)に川中島二万石となり、元和9年(1623年)に亀田へ移封となりました。明治2年(1869年)藩籍奉還まで、本町の大正寺および下黒瀬地区は領地の一部となっています。

 工藤要左エ門については、民話その18「岩見に飛んだ観音さま」でも述ぺていますが、明和元年(1764年)3月繋に生まれ、文政7年(1824年)9月26日、60歳で没しています。この築堤工事は、文政5年ころから着工したと考えられますが、現在残っている堤の高さは、2〜4メートルくらいですが、堤塘の幅員が数十メートルもある広さで、さらに6メートルほど高い堤塘の立派なため池ができたものと推定されます。

 

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