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かっぱの絵
その33
勘九郎とお地蔵様

 今からおよそ180年ほど前のこと。雄物川のほとりの小山村にある五左衛門という家に、正月の元日の朝、産声も高く男の子が生れたんだド。 勘九郎と名づけられたその子は村の子どもたちと違い、幼いころから他の童たちと遊ばず、親や村人たちにかくれるようにしては墓地に出かけていたド。そこにある地蔵堂に入って、地蔵様を相手にして、まるで友達とでも遊んでいるように話しかけたり、笑ったりしていたんだド。お小遣いを親たちからもらうと、ローソクを買ったり、お供物を持ったりして地蔵堂に出かけるんだド。  それで村人たちは皆、勘九郎を気違い扱いにして、正当に相手にしてくれなかったド。

 ある晩のこと、地蔵様は勘九郎の夢枕に現れ、ひとつの珠を与えられたんだド。その珠は、地蔵尊の左手に捧げた宝珠と同じものであったんだド。 それ以来、勘九郎は、「地蔵様の申し子」と言われるようになり、いろいろな霊験を現わすようになったんだド。

 そのころ、佐竹の殿様であった宏徳公は、仁井田のニツ屋潟で遊漁に来られ、何回も網を入れても魚は一ぴきも捕れなかったんだド。 殿様は大変不機嫌で、側近の家来たちは勘九郎をつれて来て占わせることにし、早馬を走せたんだド。召し出された勘九郎は、殿様の前に参上して、網を入れる場所を指示した上に、網に入る鯉鮒の数までも予言したんだド。

 不思議なことに、何回網を入れても魚の数は勘九郎の予言通りで、しかも大漁とあれば殿様は大喜び。その霊力に感じ入り、土地を与えてほめ称えたんだド。 勘九郎が霊験を現す前は、村人たちは気違い扱いにし、ある時大勢が寄ってあざ笑ったド。「勘九郎、おまえが地蔵尊を背負えるなら、授けてやる」と村人が言ったところ、大人でも重い地蔵様が、まだ幼い勘九郎が背を向けると、おおいかぶさるように勘九郎の背に乗り、軽々と歩いたこともあったんだド。

 勘九郎の霊験のあらたかさに、地蔵堂には参詣人があふれ、崇敬者が多くなったので、時の郡奉行・松本某は勘九郎のため一宇を建てて地蔵尊を遷座してお祀りしたド。小山の地蔵様の名声は、近隣に聞こえだド。 亀田藩主の岩城隆喜公のために雨乞いをして、恵みの雨を降らせたり、本荘藩主の六郷政芳公の死の病と言われた難病を治したりして、上は領主さまをはじめ、下は百姓町人に至るまで霊験によつて救われたド。救い導かれた人々は近郷近在はもとより、遠く他領にもおよび「勘九郎の地蔵様」「小山の地蔵様」と信仰する人々は益々ふえたんだド。

とっぴんぱらりのぷ!


かっぱの絵
民話への招待

 この物語の主人公は、秋田市豊岩小山の志賀家(清覚院)の祖にあたる勘九郎さん(諱は延寿、晩年は均と称す)です。

 地蔵様は、文政年中(1818年〜1829年)小山の俗称、「上の山」とよばれる墓地にあったものを遷座勧講して志賀家の私社として祀られ大産霊神(将軍地蔵)が祭神です。山号は、「霊寿山」と言い、「愛宕神社」と称し、俗に「小山の地蔵様」と呼ばれています。 志賀家の初代は勘九郎、二代は光胤(生家は中村五郎右衛門の長男で、4歳で勘九郎の嗣子となっています)、三代は光俊(光胤の長男)、四代は現在の当主・志賀三郎氏です。

 創建以来、新地二十石を社領として賜り、名字帯刀も許されています。また、付近には同じく勘九郎が創建した勝平神社(俗称・龍神様)および霊石神社(俗称・観音様)も祀られています。 宏徳公は、佐竹藩の十代藩主である義厚の尊称で、文化12年(1816年)〜弘化3年(1846 年)藩主の座についています。

 

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