角館に生まれる。角館城代の槍術指南役小田野直賢の四子で、幼名を長治、通称武助、字を子有という。羽揚、玉川、玉泉、麓蛙亭、蘭慶堂などと号した。はじめ狩野派を学ぶが、浮世絵風や琳派風のものも描いた。安永2年(1773)に阿仁銅山検分のため秋田を訪れた平賀源内に才能を見出され、同年12月「銅山方他所取次役」として江戸に上り、源内の元でオランダの図書や銅版画をもとに西洋画法を学んだ。翌年杉田玄白ら出版の『解体新書』の挿絵を担当した。源内周辺の蘭学者や画家とも交流があり、絵画制作上は南蘋派の宋紫石の影響が大きい。同6年12月一時帰郷し、翌年4月「御側御小姓並」として秋田本城詰を命じられた。初めは繊細に写実描写した前景と銅版画風の細線による遠景を対比させて、極端に遠近感を表した花鳥画を描き、次第に横長の画面に自然な遠近表現による風景画を描くようになった。これが司馬江漢、亜欧堂田善らのちの洋風画家たちに継承されていく。同7年10月、曙山の参勤の供をして再び江戸に上るが、同8年謹慎を命じられて帰郷、翌年5月赦免されないまま没した。