江戸に生まれる。本名は安藤吉次郎、後に姓を司馬、名を峻、字を君嶽、号を江漢といい、晩年には不言道人、春波楼、桃言などと称する。はじめ狩野派を学ぶが、鈴木春信門に入り春重と号して美人画を描き、次いで宋紫石に南蘋派の画法を学ぶ。安永年間(1772-81)に平賀源内を知って洋風画を志し、理論的指導者の源内と実技上の先駆者小田野直武とともに西洋画の研究にいそしんだ。二人の没後は前野良沢の門に入り、同門の大槻玄沢の助言を得て、天明3(1783)年日本で初めて腐食銅版画に成功した。以後天明年間(1781-89)には、主に眼鏡絵として写実的な江戸名所図などを銅版により制作する。同8年には長崎に遊学し、寛政年間(1789-1801)を中心に油彩による洋風画を制作、西洋風俗や日本の風景を題材にその力量を示した。晩年は思想的に老荘思想や禅の影響を受けて隠遁的な姿勢を強め、画業も淡彩や墨画の簡略な作品が多くなる。