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1749(寛延02)- 1780(安永09)
秋田藩士。角館所預佐竹北家の槍術指南役小田野直賢の第4子。幼名を長治、通称武助、字を子有という。羽陽、玉川、玉泉、麓蛙亭、蘭慶堂などと号した。はじめ、秋田藩御用絵師武田円硯について狩野派を学ぶ。安永2(1773)年12月「銅山方他所取次役」の命で江戸に上り、平賀源内の元で西洋画法を学んだ。同3年8月に上梓された『解体新書』では挿絵を担当、源内周辺の蘭学者や画家たちとの交流があり、絵画制作上は南蘋派の宋紫石の影響を受けたとみられる。同6年12月帰国、翌年4月には角館から久保田へ引っ越しを申しつけられ、曙山の側近くにあって洋画法を伝授した。9月には正式に「御側御小姓並」として召抱えられ、翌月曙山の参勤に随伴し、再度江戸に上る。同8年11月、遠慮謹慎を申しつけられ帰国した。