宮城県伊具郡角田町(現角田市)に生まれる。本名敬次郎。東京帝国大学医科全課卒。横手の代議士伊藤直純の招きで本県に入り、1887年大曲市に開業、90年北秋田郡公立米内沢病院長に就任、93年36歳で、秋田市土手長町に独立開業し、そこに永住した。書斎を「十声楼」と名付け、医業の傍ら書は日下部鳴鶴の主唱になる六朝書道に共鳴し、他に巌谷一六、丹羽海鶴、山本竟山、比田井天来をはじめ近代日本書道史に名を連ねる書家と交流した。1935年藍城の命名による<書道研究斗南会>が誕生し、推されて会頭となった。中央書壇の比田井天来、西川吉羊(のちの西川寧)、二世中村蘭台、上田桑鳩らを秋田に招いて、積極的に中央書壇との道を開いた。比田井天来が墓標の筆を執った。没後、69年「赤星藍城展」(秋田市美術館)、81年「郷土作家シリーズ 赤星藍城遺墨展」(秋田市美術館)、91年第29回秋田市書道会展併催展「赤星藍城展」(秋田市書道会主催 秋田県立美術館)、2008年「書の泰斗 赤星藍城-そして秋田書壇の今-」(秋田県立近代美術館)が開催された。