秋田市に生まれる。本名は計治。1913年16歳で上京し、寺崎廣業に入門する。健康を損ね、1年半で帰郷するが、画材の扱いや線に対する厳しい態度を学んだ。その後も独学で修行を積み、廣業門下の天籟画塾展に出品する。23年日本美術院展に《新月橋の雨》で初入選。26年友人の清水良太郎、奈良環之助らの援助で再び上京し、《永代橋》が入選。都会のモダニズムを反映した作風から、次第に田園風俗をテーマにした作風へと移り、32年の《田園の秋》以降、それが定着する。生来の虚弱な体質のため上京と帰郷を繰り返したが、36年以降は秋田に定住し、その後も院展へ出品を続ける。戦後は、日本画家協会秋田県支部理事長に就任、46年以降館岡栗山ら県内在住の日本画家たちと「有象社展」を開催する。58・83年に「高橋萬年遺作展」(秋田市美術館)、98年に「高橋萬年の画心展」(秋田県立近代美術館)が開催された。