角館町に生まれる。本名は貞蔵。1890年14歳のとき父穂庵が死去、翌年開かれた秋田伝神画会絵画品評会で鈴木百年に才能を認められ、穂庵の後援者瀬川安五郎の勧めで上京する。94年川端玉章に入門し、99年に東京美術学校日本画科を卒業、翌年玉章門下の結城素明らと<无声会>を結成した。1902年、東京美術学校西洋画科選科に入学し、1年間デッサンを学ぶ。07年には国民新聞社に入社し、相撲、議会のスケッチで人気を得て約20年間籍を置く。09年からは文展に出品し、17年第11回文展では《豫譲》が特選となる。22年からは帝展審査員をつとめた。一方で、16年結城素明、松岡映丘、鏑木清方らと<金鈴社>を創設、展覧会芸術とは異なる自由な境地で作品の発表を行った。32年東京美術学校教授に就任。アララギ派の歌人でもあり、自選歌集『寒竹』(33年)などを刊行、また秋田蘭画の先駆的研究書である『日本洋画曙光』(29年)を出版した。