角館に生まれる。本名は芸、通称順蔵。はじめ文池と号し、のち穂庵と改めた。四条派の画家竹村文海に学び、幕末動乱のなか1861年に京都に上るが、師にはつかず、社寺に伝わる古画の模写や風物写生により自己研鑽に努めた。帰郷後の72年函館を訪れてアイヌの暮らしや風俗にひかれ、その後も何度か仕事を得て函館に暮らし、アイヌをモチーフとした作品を描いた。80年第3回秋田勧業博覧会で《乞食図》が1等賞となる。その後龍池会や内国絵画共進会などで実力が認められて、東洋絵画会の学術委員に推され、86年に上京。東陽堂の美術雑誌『絵画叢誌』の編集にあたった。体の不調から89年には帰郷、翌年第3回内国勧業博覧会で《乳虎》が妙技2等賞を受賞し、宮内庁買い上げとなった。四条派を基調に、写実表現をさらに追及した作品は近代日本画のなかでも先駆的であり、荒木寛畝、橋本雅邦らと並び東京画壇の十大家と称された。