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2001年5月25日号

あきた不思議発見伝
秋田市の歴史に伝わる不思議な話、謎、謎、謎…


 補陀寺の伝説…
二代目住職は藤原藤房?


秋田市山内の名刹、補陀寺の後の丘に、ひっそりとたたずむお墓があります。補陀寺二世(二代目の住職)無等良雄のお墓ですが、この無等良雄が藤原藤房卿であったという言い伝えがあります。
 藤原藤房卿は、鎌倉幕府を討滅し天皇親政を始めた(建武の新政)後醍醐天皇の側近で、中納言・正二位。まさに当時の政権の中枢にあった人物でしたが、後に政治への情熱を失い、役職を辞して京都の岩倉で隠遁生活を始めます。後醍醐天皇の増税政策に反対し、それが受け入れられなかったことが原因とも言われています。
 伝説では、藤房卿は、隠遁生活の後、越後(新潟県)に移り、その地で月泉和尚の弟子となり無等良雄と名を改め、後に秋田でともに補陀寺を建て、二世になったと伝えられています。
 無等良雄が藤房卿であったとされる説は、補陀寺の寺伝や紀行家・菅江真澄によっても紹介され、江戸時代には多くの人々に信じられ、伝えられていたと考えられます。しかし、藤房が京都の公家であるにもかかわらず、無等良雄が秋田出身であると記述している資料などがあることから、疑問な点が多いのも事実です。藤房が南朝の著名な人物であることから、江戸時代の南朝正統論の高まりの中から生まれた伝説ではないかという説もあります。


藤房の心を癒した(?)山内の美しい自然

 しかし、伝説が伝説として多くの人に信じられ、伝えられるには、「話」としての説得力、聞き手が「さもありなん」と共感できる背景が必要です。藤房卿伝説が信じられた背景、それは、無等良雄の優れた人徳と、補陀寺とその周囲の美しい景観ではないでしょうか。
 太平山に抱かれ、後に旭川と命名される清流に洗われた美しい自然のなかで、中核寺院としての風格を持ち、凛としてたたずむ補陀寺。その清浄な雰囲気が、藤房卿のような都での政争や人間関係に疲れ、一時世を捨てた人物が、心やすらかに自分を見つめ直すには絶好の環境として多くの人々にイメージされたのかもしれません。
 無等良雄師(藤房卿?)の時代の補陀寺は、現在の場所の北東にあり、江戸時代前期の火災の後、現在地に移されたと伝えられています。十八世紀後半の建築と考えられる山門・本堂は市の文化財に指定され、歴史的にも貴重な建造物です。
 樹齢幾百年を数える巨木に囲まれた境内は、今も変わらず、心洗われるような清涼な雰囲気に包まれています。 


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