2002年3月22日号

あきた不思発見伝 最終回

秋田市の歴史に伝わる不思議な話、謎、謎、謎…


「小菅野の渡し」の言い伝え
雄物川が刻む悠久なる時の流れ

のどかな田園地帯を、滔々と流れる大河、川岸には渡し船。船上で休んでいた船頭が向こう岸の旅人の姿に気がつき、大きな声をかける。「越すかの〜(川を渡るか?)」。旅人が答えると、渡し船は旅人を乗せるため向こう岸に向かって船を漕ぎだす。
 まるで時代劇の一場面のような川の渡し場の光景。これは秋田市の雄物川を舞台とした話として、菅江真澄が紹介している話です。この川の渡し場は、渡し船の船頭が、「越すかの〜」と声を掛けることから、「こすかのの渡し」と呼ばれるようになり、やがて「小菅野の渡し」という地名になったと言われています。
 情緒豊かなこの「小菅野の渡し」の伝承ですが、不思議なのはその場所です。それは、現在の雄物川からは随分離れた外旭川、白幡神社の近くにあったと伝えられているのです。
 雄物川は、昭和十三年に放水路が完成し、新屋地区から直接、日本海に注ぐようになる以前は、豊岩から勝平山の東側を通り、土崎から海に注いでいました。放水路の完成後、それ以後の雄物川は、やや西側に流れをかえ、旧雄物川(秋田運河)と呼ばれています。現在の臨海バイパスが、かつて雄物川の流路であったことをご記憶のかたも多いかと思います。いずれにしても外旭川からは、随分離れています。雄物川は、かつて、現在とは別のコースを流れていたのでしょうか。

水郷情緒あふれる風景は母なる川の幻か…

 雄物川の流路に関しては、天長七年(八三〇)の大地震で、川の流れが大きく変わったという記録があります。また、秋田の不思議話を集めた長山盛晃の「耳の垢」には、佐竹義宣の時代(十七世紀の前半)、雄物川は、現在の手形から泉を通り、天徳寺の前を外旭川笹岡の方に流れ、土崎を経て日本海に注いでいたと書かれています。この「耳の垢」の流路では「小菅野の渡し」の場所は、まさに雄物川の川べりに位置することになります。
 しかし、ボーリング調査などによる地質学的な調査結果によれば、記録・伝承されているような時代に大幅な流路の変化を裏付けるデータはなく、外旭川に「小菅野の渡し」のような水郷情緒あふれる風景が、本当にあったのか、言い伝えが生み出した幻想なのか…すべては謎です。
 雄勝町大仙山に源を発し、仙北地方の穀倉地帯を潤し、秋田平野を育んだ母なる川、雄物川。四百年前の佐竹氏入部に伴う新しい城・城下町建設地に現在の秋田市が選ばれたのは、雄物川の河口に位置していたという地理的条件が大きな理由の一つであったことは間違いありません。
 「小菅野の渡し」を紹介した真澄の「月のおろちね」には、雄物川は「千福川」と表記されています。その名のとおり豊富な自然の恵みとともに、秋田藩内の交通・運輸の大動脈として秋田の発展に大きな役割を果たしてきました。
 滔々と悠久の時を刻み続ける雄物川。その雄大な姿とは対照的に、流路の変化を様々に伝える記録・伝承には、どんな歴史が隠されているのでしょうか。


Copyright (C) 2000秋田県秋田市(Akita City , Akita , Japan)
All Rights Reserved.
webmaster@city.akita.akita.jp