2003年10月10日号

1市2町の歴史を読む


せせらぎの町
河辺町


岨谷峡
 中世のころの河辺町は、各地に豪族などが砦をかまえ、その周りに人が集まり集落を形成していったと想定されます。
 永正年中(一五〇四〜一五二一)に黒川肥後という人がこの地方を支配したとされており、その後、永禄元年(一五五八)、畠山重村が豊島城を築き、豊島玄藩頭と称し、その支配地域を豊島郡と呼びました。
 幕末のころには、岩見・三内の両村が独立しており、和田は、和田・諸井・高岡・赤平・神内・大張野・大沢の七か村からなっていました。また豊島は、野田高屋(戸島)・畑谷・豊成・北野田高屋・松渕の五か村を併せていました。
 明治二十二年には、岩見・三内の両村が合併して岩見三内村となりました。また、和田は前述の七か村を併せて和田村となり、豊島は前述の五か村が合併し豊島村となりました。
 その後、昭和十年に和田村が町制実施により和田町に。昭和三十年三月三十一日には、経済的、文化的、かつ地理的にも密接な関係にあった和田町・岩見三内村・豊島村の三町村が合併し、新しく河辺町として発足し、現在にいたっています。

輝く緑と水の里
雄和町


雄和町の秋田空港
 雄和町の主な開発は、奈良時代(七一〇〜七八四)の後期に秋田の古代交通の要所として「羽後の駅路」「羽州の駅路」が開かれ、さらに平安時代(七九四〜一一九二)初期に、東征従軍士などが土着して開拓を進めたことにはじまるとされています。
 江戸時代には、雄物川を利用した水路交通の要所として、幾多の乱世の変遷を経ながら、約二百七十年間は戸米川・種平・川添地区が久保田藩佐竹氏の藩下に、大正寺・下黒瀬地区が亀田藩岩城氏の藩下におかれていました。
 その後、椿台の糠塚森が最後の戦場となった戊申の役(一八六八)を経て明治となり、明治十一年の郡区町村編成で、戸米川・種平・川添地区は河辺郡に、大正寺地区は由利郡に所属していましたが、大正寺地区は昭和二十三年に河辺郡に編入されています。
 その後、昭和三十一年九月三十日に大正寺・戸米川・種平の各村が合併して雄和村が誕生。翌三十二年六月一日には、川添村が合併して現在の行政区となりました。
 町名の「雄和」は、高雄の峰(高尾山)、雄物川の流れにちなみ、さらに郷土の融(雄)和一体を信条として命名されたものです。町制の施行は昭和四十七年四月一日です。

建都400年の中核市
秋田市

 秋田市の開発は、千二百年あまり前にさかのぼり、天平五年(七三三)、大和朝廷が北辺守備の拠点として、高清水の丘に出羽柵(秋田城)を設置したことに始まります。
 その後、南北朝、室町時代を経て、足利末期の戦国時代には、安東氏(のち秋田氏)が土崎に湊城を築城し、政治、経済、文化の中心として繁栄しました。
 そして慶長七年(一六〇二)、常陸(現茨城県)を治めていた佐竹義宣が秋田へ国替えとなり、当時「窪田(くぼた)」と称した寒村に、水戸から推定一万〜一万五千人の人々とともに移り住みました。
 佐竹氏は、神明山(現在の千秋公園)に久保田城を築き、侍町の内町、町人町の外町の町割りを行いました。このまちづくりは、当時としては優れた都市計画であり、防御、出撃を主眼とした戦略的なまちづくりでした。
 明治四年の廃藩置県後、現秋田市は久保田から秋田と改称され、県庁所在地となりました。明治二十二年の市制施行当時の秋田市は、人口約二万九千人、世帯数約六千六百、面積六・九平方??でした。
 その後、秋田市は八回にわたる町村合併などにより市勢がめざましく発展し、平成九年四月一日には中核市となりました。
 来年二〇〇四年は、佐竹氏が久保田城に入城した一六〇四年から数えて建都四百年を迎えます。



1市2町の面積の合計は905.67平方キロで、県の総面積の7.8%を占めます。


●河辺町 町の東北部の岩見山・財の神国有林から源を発する岩見川が町の西部へ流れ、秋田市四ツ小屋付近で雄物川と合流しています。町の総面積のうち森林が85.8%と大部分を占めています。
●雄和町 町の中央部を県内最大河川である雄物川が町を二分して流れ、秋田市へとそそいでいます。平坦で肥沃な耕地が広がっていますが、町の総面積の65.6%は森林です。


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