2004年5月14日号

くぼた旧町名物語

まちの生い立ち


 一六〇四年、佐竹義宣は現在の千秋公園に久保田城を築き入城しました。それから間もなくして城のまわりに、旭川をはさんで、侍が住む「内町」と町人が住む「外町」を整備し、久保田城下の基盤をつくりました。
 現在の中心市街地が、秋田藩の時代にどのように形づくられたのか、その生い立ちを見てみましょう。

(1)商業のまち〜大町・茶町編
久保田のまちの経済を支えた格式ある町

土崎の商人が外町の形成に貢献

 久保田城下のまちづくりが本格的に始まったのは慶長十二年(一六〇七)。町並みがそろったのは寛永年間(一六二四〜四三)といわれています。
 「大町(一・二・三丁目)」は、商業の中心地として外町の中でいち早く整備されました。ここに移り住んだのは、土崎に住んでいた裕福な商人たち。佐竹義宣が、土崎の湊城から久保田城に移ったのにともない、商人たちを強制的に移住させたといいます。新しいまちづくりの経済基盤をしっかりさせるためには、知識と経験に長けた湊商人は欠かせない存在だったのかもしれません。
 同じく土崎の商人が移り住み、「茶町(菊ノ丁、扇ノ丁、梅ノ丁)」が作られました。茶町の人たちは、「菊ノ丁、扇ノ丁、梅ノ丁」こそが外町に移る前の「湊大町」であったと主張しましたが、大町の移住から四、五年遅れたため、はじめは「新町」と呼ばれました。
 今となっては大町の町名の由来を明らかにする資料は残念ながら残っていませんが、「湊大町」という町名の存在は、なんだか関係があるようにも思えます。

旧町の位置図

大町・茶町は家督のまち

 秋田藩は、城下町での商業を統制するため、外町のいくつかの町に、特定の商品を独占販売できる特別な権利を与えました。このような町を家督町といいます。
 財政的にも余裕があった大町と茶町は、秋田藩から命令があれば、公用に使う馬や人夫を出したり、幕府からの公的使者の宿泊や接待などを行う役割を担わされていましたが、その代わりに、早くから商業の特権である家督が許されました。
 大町の家督商品は、絹布、木綿、麻糸、小間物などで、それらを取り扱う呉服屋などが店を連ねました。
 茶町の家督商品は、茶、紙、綿のほか、砂糖、畳表、傘、鰹節などの荒物(おもに雑貨類)を取り扱い、その中の商品「茶」が町名の由来になったといわれています。
 また、大町には両替商(いまの銀行)、茶町には、諸上納役所(藩から出された小切手を換金する場所)が特別に設けられるなど、商売の中心地として重要な役割を果たしました。藩からの信頼もよほど厚かったのではないでしょうか。

心づかいは今も昔も変わらず

 江戸時代の暮らしを描いた、荻津勝孝(一七四六―一八〇九)の「秋田風俗絵巻」(PDF版2ページ)をご覧ください。
 道路側に一間(一・九七?)ぐらいのひさしを出して商品を並べた「小見世」(小店)の前に集まるたくさんの人びと。羽州街道が通る町として、城下町の人だけでなく、他国からの旅人なども往来し、大町の繁盛ぶりがよくわかります。
 また、雨や雪を避けるための通路(いまのアーケード)も設けていたという記録もあり、客に対するちょっとした心づかいは、今も昔も変わらず”まごころ“を感じさせてくれます。

 外町のまちづくりのさきがけとなった大町・茶町。ほかの町からも一目置かれ、格式高い商業のまちとして、久保田のまちの経済を支え続けました。

城下町・御休み処


ティータイムのしゃれたあいさつ
「茶町とぎくて…」

 「茶町とぎくて(遠くて)…」。
 この言葉を聞いて懐かしく思うかたもいらっしゃるのではないでしょうか。
 この表現は、お茶受けの甘いものを切らしたときなどに、秋田ならではの風情ある言い訳として便利に使われてきました。
 藩政時代、茶町には、砂糖類の専売権が与えられ、それ以外の町では、砂糖類の販売ができませんでした。そのため、不意のお客さんをもてなす、煮豆やボタモチなどのお茶受けの甘みが足りないとき、「自分の住む町が茶町から遠くて砂糖を買いに行けず、十分な甘みが出せなかった」という言い訳を、しゃれた言い回しで表現しました。
 茶町の町名が大町に変わったのは、昭和40年。旧町名が残るこのあいさつを、旧茶町の人たちはいまも大切に語り継いでいます。


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