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2004年12月10日号 |
くぼた旧町名物語・まちの生い立ち
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(8)内町編
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商人・職人などが住んだ外町に対し、佐竹家の家臣をはじめとする、侍屋敷が軒を連ねた内町。その町割りもまた、久保田城築城とともに進められました。 |
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大手門と中土橋門には重臣が居住 |
城内三の丸にあった「上中城町」「下中城町」には、いずれも藩を支えた重臣が屋敷を構えました。 |
公式行事「鷹狩り」のもう一つの意味 |
城に仕えるものたちの役職にまつわる町名がついた「台所町」と「鷹匠町」は、ともに寛永八年(一六三一)の町割りで作られました。 |
城下を治める要のまち |
外町の川端と旭川を挟んで対面する土手長町は、中級武士の屋敷が並びました。町名は、築城にともなう旭川掘替えの際にできた土手に由来するものです。 |
城下町・御休み処 |
変わらぬ流れ
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“あさ日川 夕日の色もせき入れて
くれなゐふかき 梅のした水” これは、江戸時代の紀行家・菅江真澄が詠んだ和歌です。歌にも出てくる「旭川」は、その源流が太平山の旭岳に端を発することから、九代藩主・佐竹義和の命を受けた真澄が名付けたと伝えられています。 久保田城築城とともに着手した旭川の堀替え工事は、通町から川口境までの区間で行われた一大公共事業でした。作業に駆り出された農民は延べ10万人を超えたとも言われます。 当時の旭川は、内町と外町の境界を成す水域であるとともに、貴重な生活用水の供給源でもありました。川端の所々には、いくつかの町が共同で管理する、「川戸」「川道」と呼ばれる水汲み場があり、そこは、飲料水を汲み上げるほか、洗い物、洗濯をする場所としても利用されていました。 また、川沿いに「塵塚」(ごみ捨て場)も数か所に設置され、ごみを積んだ舟が川を下ったりもしていました。しかしその一方でごみの不法投棄が後を絶たなかったという残念な記述も残されています。 ともあれ、城下の人びとの生活に欠かすことができなかった旭川。400年経った今も、その流れは心いやしてくれる貴重な存在となっています。 |
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