※掲載している情報は「広報あきた」発行当時のものです。
2011年5月6日号

古代の息吹伝える秋田城

問い合わせ
秋田城跡調査事務所 tel(845)1837


当時は、東西・南北約500メートルの城壁(白線)に囲まれていました。

 寺内にある秋田城跡は、1270年ほど前に造られた古代の城「秋田城」の遺跡です。
 市では一帯の発掘調査を続けているほか、当時の施設を復元するなど、歴史公園としての整備を進めています。


秋田城は奈良時代(西暦733年)、高清水の丘に造られた古代の城です。奈良時代から平安時代にかけて、秋田を治めていた役所で、政治、軍事、文化の中心地でした。
 特に奈良時代には、当初、出羽柵と呼ばれ、東北地方の日本海側に広がる出羽国の政治を行う国府(現在の県庁にあたる役所)が置かれていました。また、中国大陸にあった渤海国からの使者や、青森や北海道に住む蝦夷の人々が訪れる、日本の北の窓口としても重要な場所だったと考えられます。
 秋田城は、塀で囲まれた政庁をさらに1周約2キロの外郭の城壁で囲む二重の形になっていました。政庁は東西94メートル、南北77メートルの広さで、正殿と脇殿などの建物が左右対称に配置されていました。当時の都である奈良の平城京と同じつくりと配置であることから、国家の威信を当時の最北端の地まで示す重要な施設だったことが分かります。


平成10年に復元された外郭東門と
築地塀(土を突き固めて造った塀)

平城京にもない水洗トイレが出土

 秋田城跡は昭和14年に国の史跡に指定され、法律で守られる遺跡になりました。本格的な発掘調査が始まったのは昭和47年。たくさんの倉庫や、鉄の品物を作る工場、役人や兵士が住んでいた竪穴住居、井戸など、当時の建物や生活の跡が数多く発見されています。
 中でも珍しいのは古代の水洗トイレです。奈良時代の後半に使われたもので、沼地の岸辺に建てられていました。建物と水洗施設が一体化していて、当時の都にもない立派な施設です。出土した寄生虫の卵の種類から、地元の人ではなく、ほかの地域や中国大陸からの使者など重要な人たちが使ったと考えられています。

秋田城を伝え、活用する歴史公園

 市では、貴重なこの遺跡を次の世代へ継承し、活用していくため歴史公園として整備しています。これまで外郭東門と築地塀、古代沼、政庁、古代水洗厠舎などを復元しました。遊歩道もあり多くの野鳥も訪れる公園は、日本の歴史公園100選に選ばれています。

秋田城関係年表

和銅3年
(710年)
平城京(奈良)に遷都

天平5年
(733年)
出羽柵を秋田村高清水岡に置く(秋田城の始まり)

天平宝字4年
(760年)
阿支太城(秋田城)の名前が初めて史料に登場する(この頃、改称・改修される)

宝亀11年
(780年)
相次ぐ蝦夷(独自の文化を持ち生活していた東北地方の人たち)の攻撃に対して朝廷が専任国司と兵士の派遣を決定。秋田城介が常置され、出羽北部を統治した

天長7年
(830年)
大地震により、城郭、四天王寺などの建物と仏像が倒壊した

元慶2年
(878年)
蝦夷が蜂起。多くの建物が焼かれ、秋田城が占拠された(元慶の乱)

10世紀中頃 古代の城としての役割を終える


おもな復元施設

●政庁
上/平成22年に復元された政庁。東門と築地塀は立体復元、正殿などのおもな建物は柱位置の表示です。晴れた日には正殿から鳥海山が見えます。下/政庁全体がわかる模型を政庁東側に設置しています。



●水洗厠舎
上/平成21年3月に復元工事が完了した水洗厠舎。左上/当時の想像図。かめに溜めておいた水をひしゃくで流して、汚物を沈殿槽へ送っていました。左/実際に水を流すことができます。ひしゃくも出土品を元に再現したものです。

秋田城跡出土品収蔵庫

 土器や木簡、武器など、秋田城跡の貴重な出土品を展示しています。入館無料。ご希望のかたにはボランティアガイドが説明します。
●開館時間/午前9時〜午後4時(入館は午後3時30分まで) ※12月〜3月は休館


古代沼から出土した人面墨書土器。まじないの道具として水に流されたものです。
●問い合わせ
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