※掲載している情報は「広報あきた」発行当時のものです。
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2020年1月3日号
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新春市長コラム |
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2020年 未来につなぐまちづくり |
明けましておめでとうございます。令和最初の新年を迎え、みなさま健やかにお過ごしのことと思います。
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心に響く鐘の音を次世代に |
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大晦日から元旦にかけて冬の夜空に響きわたる除夜の鐘。千秋公園でも毎年、「千秋の鐘」の荘厳な音色のもと、新年を迎えます。
千秋公園の時鐘は、寛永16(1639)年、秋田藩二代藩主・佐竹義隆が久保田城二の丸に鐘楼を設置したのが始まりとされ、何度かの改鋳・移転を経て、明治25年に現在の位置(建設中の県・市連携文化施設北側の内堀の上)に設置されました。当時の鐘楼は木造で、素朴な中にも文明開化の香りを感じさせる姿は、秋田市出身の木版画家・勝平得之の〈千秋公園八景〉「雨の内濠」にも描かれています。
歴史を紐解くと、鐘は何度か廃止の憂き目にあいながらも、そのたびに危機を乗り越えて復活してきました。 戦時中の昭和18年には、金属回収による供出で失われましたが、昭和23年に新しい鐘が鋳造されて復活。鐘の音が聞けないことを悲しむ市民の声、鐘の鋳造・寄付を申し出た、市内で金属工作所を営む林金太郎氏とそのご兄弟の奮闘のほか、鐘を鋳造するときには高貴なかたの日用品を鋳込むという伝統的な作法に従い、秩父宮家から銅製の盾と一輪挿しをいただいたいきさつなど、たくさんの物語があったようです。 ところが20年後の昭和43年、木造の鐘楼が老朽化したこと、テレビ・ラジオの普及などで時鐘の役割が薄れたことから、再び廃止されます。このときも、長い歴史を惜しみ、鐘の復活を望む市民の声が根強く、昭和48年、市民による実行委員会が集めた寄付なども活用して現在の鐘楼が建てられました。廃止されていた5年余りの間も、鐘は時鐘守の吉敷家のかたがたによって大切に保管されていました。復活に当たり、公募で愛称を「千秋の鐘」と決め、再びその音を響かせるようになって現在に至ります。
かつては一日6回、近年は毎朝7時と夜9時に欠かすことなくつき鳴らされてきた時鐘。鐘つきの役割は、佐竹氏から時鐘守を任された吉敷家が担ってこられましたが、継続が難しくなったため、令和元年10月24日を最後にその任を終えられました。雨の日も風の日も雪の日も、毎日毎日、同じ時刻に鐘をつき鳴らす大変さは想像に難くありません。誠に頭が下がる思いであり、これまでの吉敷家のみなさまのご尽力に対し、心から敬意と感謝を表したいと思います。 鐘本体には、昭和23年の鋳造当時の児玉政介市長による「この鐘の由来」という文が彫り込まれています。私の七代前の市長である大先輩が残した締めくくりの一文には「おもうにこの鐘 これから後は 昔に勝る和やかな響きを 永久に伝えることであろう」とあります。 私も、こうした思いを受け継ぎ、歴史を重ね、人々の生活に溶け込んだ鐘の音を、大切な文化の一つとして守っていきたいと考えています。人手による鐘つきを続けることは難しいため、市民のみなさまからいただいた寄付も活用して、時代の変化に合わせて自動鐘つき機を設置し、4月から時鐘の再開をめざしています。 |
まちの音と記憶 |
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中心市街地に美しく鳴り響くもう一つの鐘。千秋公園のお堀近くに建つカトリック秋田教会の鐘は、華やかで澄んだ音色が幾重にも重なり、軽やかな印象を与えてくれます。私も、近くを通りかかったときに偶然耳にすると、心地よい音色につい聞き入ってしまいます。一音で長く心にしみる余韻を響かせる「千秋の鐘」との対比も面白いもので、こうした楽しみ方も、暮らしの中の豊かさの一つのように思います。 鐘に限らず、私たちは、音楽をはじめ、まちの雑踏、鉄道や工場の音、鳥の鳴き声や木々のざわめきなど、さまざまな音に囲まれて生活しています。それらは、知らず知らずに、私たちが経験する出来事や日常の記憶と結びつくことがあります。「遠き山に日は落ちて」のメロディを聞いて家路を急いだ子どもの頃のまちを、教会の鐘の音で旅行で訪れたヨーロッパのまち並みを、ガード下の鉄道の音で都会で過ごした若い頃を思い出したりするように。このように考えると、音もまちの風景の一つ。そのまちならではの音があるはずです。 天気のよい日に、お気に入りの音を探してまち歩きをしてみるのも楽しいのではないでしょうか。いつもと違った視点でまちを歩けば、普段は気づかなかった秋田の魅力を発見できるかも知れません。どこにしようか迷ったら、中心市街地に響く2つの鐘の音からどうぞ。 |
災害に備えて不断の見直しを |
昨年は、8月に九州北部を襲った記録的大雨、9月に千葉県を中心に記録的暴風となった台風15号、10月に東北、関東甲信越の広範囲に大雨をもたらした台風19号などにより、全国で甚大な被害が発生しました。亡くなられたかたがたに対し、謹んで哀悼の意を表しますとともに、被害を受けられたみなさまに心からお見舞いを申し上げます。
本市では、台風19号による災害発生直後から、宮城県伊具郡丸森町に向けて、緊急消防援助隊として46人が出動したほか、その後も宮城県角田市、福島県いわき市と郡山市に33人の職員を派遣し、給水車による応急給水、避難所の運営などの支援に当たりました。 幸い、本県では大きな被害がなく、秋田は災害が少なくて比較的安全だという声も聞かれますが、これからもずっと続くとは限りません。本市としても、他都市で備蓄保管場所が浸水し、食料の一部が廃棄された事例などを踏まえ、保管場所の安全性について点検、見直しを行うとともに、被災者の目線に立って必要な物資を計画的に整備するなど、実情に即し、より実効性の高い対応体制となるよう不断の改善に取り組んでいます。 市民のみなさまも、改めてハザードマップを確認したり、もしものときの家族の連絡方法や避難場所、経路を話し合ったり、初期対応に必要な食料などの備蓄品を用意するなど、日頃からの備えをお願いします。そして、いざというときには、避難情報などがメールで受信できる「防災ネットあきた」などで正確な情報を把握し、自分の身を守るために、早期の避難行動をお願いします。 *派遣人数などは、令和元年12月1日現在の数字です。 |
続く誘致企業の受け入れ |
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新規企業の誘致は、県との連携のもと、着実に成果が上がっており、今年度は12月1日現在で、すでに5社の受け入れが決定しています。これにより、操業時で80人、将来的には200人を超える新規雇用が見込まれ、地域の活力の向上や若い世代の就職先の拡大につながると期待しています。 企業の進出が続く要因としては、近年の大規模災害を踏まえた事業継続のためのリスク対策や、関連企業の立地状況、本市独自の優遇制度、本市の暮らしやすい都市環境などが挙げられます。加えて、特に進出が増えているICT(情報通信技術)関連産業においては、首都圏で人手不足が続く中、勤勉で優秀な秋田の人材が高く評価されていること、通信環境の向上で距離的な制約が小さくなったことなど、さまざまな要素があると考えています。 今後も、こうした本市の優位性をアピールしながら、電子・デバイスや医療関連などの製造業、若い世代の活躍が期待されるICT関連産業などの成長分野をおもなターゲットに誘致を進め、さらなる地域経済の活性化につなげていきたいと考えています。 |
新年度に市政推進の基本方針を策定 |
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災害対策と企業誘致について取り上げましたが、本市では、市政推進の基本方針である第13次秋田市総合計画「新・県都『あきた』成長プラン」のもと、基本理念「ともにつくり ともに生きる人・まち・くらし〜ストップ人口減少 元気と豊かさを次世代に〜」の実現に向け、秋田市を元気にし、次の世代に引き継ぐためのさまざまな施策を展開しています。 総合計画は、時代の潮流や市民意識、社会状況の変化などを踏まえて見直しを重ねてきており、令和2年度は、平成28年度にスタートした現計画が計画期間の最終年度を迎えるため、新しい総合計画を策定する年になります。人口減少・少子高齢化が進む現状を分析・検討した上で、地域産業の振興と雇用の創出、子どもを生み育てやすい社会づくり、中心市街地の活性化、公共交通の維持・充実などをはじめ、将来を見据えた施策のあり方について、しっかりと方向性を示してまいります。 ◆ みなさまにとって、穏やかで、幸せな一年になることを心からお祈り申し上げます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。 |
〜写真で見る時代の節目〜令和元年プレイバック! |
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