※掲載している情報は「広報あきた」発行当時のものです。
2025年8月15日号

戦後80年 被爆証言講話会

語り継ぐ思い


 7月12日・13日、土崎みなと歴史伝承館と中央市民SCで、長崎の原爆被爆者、土崎空襲の体験者をお迎えし、ご自身の体験や平和への思いを語っていただきました。貴重なお話の概要をご紹介します。
●問い合わせ/企画調整課tel(888)5464

小学生から大人まで、たくさのかたが話に耳を傾けました

長崎への原爆投下
 昭和20(1945)年8月9日午前11時2分、長崎市に投下された原子爆弾は、一瞬にして都市を壊滅させ、幾多の尊い命が奪われました。

長崎原爆被爆者 橋本富太郎さん
(公益財団法人長崎平和推進協会)

時1歳11カ月で、爆心地から南に4キロの自宅に母と居ました。両親は被爆体験記を記録として残してくれましたが、私自身に戦時中の記憶はありません。
 しかし、身体が覚えていることが1つあります。毎年8月6日・9日・15日に鳴るあの(追悼の)サイレンに身体が勝手に震えるのです。当時の空襲警報の音を身体が記憶しているのでしょう。中学生の頃から長い間、被爆の影響と思われる病気やけがにも苦しめられてきました。私の身体には被爆の記録があるのです。
 被爆者の願いは「二度と被爆者をつくらない」こと。みなさんには、過去に何が起こって今があるのかを学んでもらいたい。学んで、考えて、行動した先に未来はあります。

土崎空襲
 終戦前夜の昭和20(1945)年8月14日から15日未明にかけて、土崎地区に1万2千発を超える爆弾が投下され、この空襲は「日本最後の空襲」と呼ばれています。

土崎空襲体験者 伊藤津紀子さん
(土崎港被爆市民会議)

崎空襲があったとき、私は4歳で自宅に居ました。空襲警報が鳴り一旦は畑にある防空壕へ入りましたが、そこも危ないと家族と高清水の丘へ走って逃げました。日本石油の方がオレンジ色に燃えているのが見えました。翌朝家へ戻ると、爆弾が2発落ちて穴が開き、家は粉々になっていました。
 土崎に落とされた爆弾は、破裂すると無数の破片が飛び散って人や建物などを傷つけました。近所でもその破片が刺さったり切り裂かれたりして22人が亡くなりました。命は助かったけれども、けがをして大変な思いをした人もたくさんいます。
 終戦があと1日、いや半日早かったら…と思わずにはいられません。

爆弾の破片に触れる。
ずっしりと重い…

土崎空襲の記録に触れ
平和の大切さについて考えてみませんか

土崎みなと歴史伝承館 空襲展示ホール

投下された爆弾(不発弾)


旧日本石油秋田製油所の倉庫の一部。
爆撃による高熱で、コンクリートの柱が溶け、中の鉄骨が見えています

 土崎空襲で被爆した旧日本石油秋田製油所の倉庫の一部を移設展示しています。被爆範囲が分かるプロジェクションマッピングや爆弾などもご覧いただけます。入館無料。
開館時間/午前9時〜午後5時
休館日/火曜(休日の場合は翌日)
●問い合わせ/土崎みなと歴史伝承館tel(838)4244


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