II

新世紀プランの前提(秋田市の現状と課題)

1  1.地勢・歴史
1  (1) 地 勢
 秋田市は、北緯39度43分、東経140度6分で、本州の東北、秋田県の日本海沿岸地域の中央に位置しています。
 市の東部は、そのほとんどが山地および丘陵地帯で、標高1,171メートルの太平山頂を境に斜面一帯には国有林が広がっています。市内に点在している丘陵地として、大森山、金照寺山、手形山、千秋公園、高清水の丘、勝平山などがあります。
 南部を流れる雄物川は、県の東南端の栗駒山に源を発し、雄勝、平鹿、仙北、河辺の4郡の穀倉地帯を貫流し、秋田市で日本海に注いでいます。
 雄物川、太平川、旭川、新城川の下流一帯には、河川に沿って秋田平野が北北西から南南東にかけて延長16キロメートルにわたって広がり、沖積層からなる肥沃な生産力の高い土地となっています。
 海岸線は単調であり、その延長は約23.5キロメートル、内陸は海岸線より1〜2キロメートル幅の砂丘地が南北に走っています。
 秋田市の年間気候を過去30年間の平年値でみた場合、気温は年平均11.0度、降水量は1,786ミリメートル、降水日数は176日ですが、積雪は最深値で38センチメートル程度です。
 風向きは、1年を通じて南東が最も多く、次に北西で、冬季は北西の風が強くなります。

(2) 歴 史
 秋田市の開発は、1200年余前にさかのぼり、天平5年(733年)、大和朝廷が北辺守備の拠点として、高清水の丘に出羽柵(秋田城)を設置したことに始まります。
 その後、南北朝、室町時代を経て、足利末期の戦国時代には、安東氏(のち秋田氏)が土崎地区に湊城を築城し、政治、経済、文化の中心として繁栄しました。
 そして慶長7年(1602年)、当時「窪田(くぼた)」と称した寒村に、佐竹氏が水戸から推定1万から1万5千人の人々とともに移り住みました。
 佐竹氏は、神明山(後の千秋公園)に新城を築き、侍町の内町、町人町の外町の町割りを行いました。このまちづくりは、当時としてはすぐれた都市計画であり、防御、出撃を主眼とした戦略的なまちづくりでした。
 明治4年の廃藩置県後、現秋田市は久保田から秋田と改称され、県庁所在地となりました。明治10年ごろ、秋田町と呼ばれたころの戸数は、約9,700戸、人口約32,000人の町でしたが、明治19年の大火と悪疫の流行により、町勢は衰え、人口も減少し、明治22年の市制施行当時の秋田市は、面積6.9平方キロメートル、世帯数約6,600、人口約32,000人でした。
 その後、秋田市は前後8回にわたる町村合併や雄物川放水路の開通、秋田港と秋田運河の改修、工業地帯の造成、鉱物資源の開発そして羽越、奥羽の両本線をはじめとする交通運輸機関の整備等により、市勢はめざましく発展し、現在の市域は460.10平方キロメートルであり、平成12年の国勢調査(速報値)では、世帯数122,957、人口317,563人となっています。平成9年4月1日には中核市となり、地方分権を推進し、市政への市民参加を進めた、市民主体のまちづくりを目指しています。



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