広報あきたオンライン版

2000年
6月23日号



21世紀への遺産

時を越えて生き続ける見えない力がある。
ふるさとの文化。
いま、次代へ、確かに伝えるもの…。

 

 学問の神様として知られる菅原道真公。道真公を祭る八橋の菅原神社の境内には、江戸時代後期から明治時代中期にかけて建てられた七基の筆塚があります。
 筆塚は、藩政時代、検地の記帳に用いた筆を埋めてその記念として作ったものが一般的ですが、菅原神社の筆塚は、庶民教育に携わった人々の冥福を祈るために建てられたところに特色があります。全国的にもたいへん珍しく、七基すべてが市の文化財に指定されています。

 

筆塚が語る師弟の強いきずな

 最も古い筆塚は、赤津洳水(じょすい)の塚で弘化二年(一八四五)に建てられました。残りの六基も明治二十五年までの間に建てられたと記されています。
 十八世紀後半、秋田藩九代藩主佐竹義和の頃になると、学芸に親しむ風潮は武士階級のみならず、町人にも広がり、久保田城下には寺子屋や私塾が開かれるようになりました。読み書き、そろばんといった実用的なものに限らず、武士階級の学問であった論語の普及もこの頃からといわれています。
 その寺子屋の一つに赤津塾(大町)があり、赤津洳水はそこの三代目塾長でした。洳水は、高潔な人格と教育にかける情熱で、人々の深い尊敬を集め、門弟は四百人を優に超えていたと伝えられています。彼の死後、門弟が恩師の死をいたみ、彼の愛用していた秀筆を埋め、石碑を建てて冥福を祈ったことが菅原神社筆塚の始まりでした。
 その後も菅原神社の筆塚は、すべて赤津塾の門下生らによって建てられました。彼らが恩師とあおいだ画家や俳人、藩校明徳館教授、秋田藩勘定奉行…。石碑に丹念に刻まれた文字ひとつひとつから、この時代の強い師弟関係がうかがえます。
 現在、筆塚の周りには梅が植えられ、春になると偉人たちの功績を讃えるかのように白い花をつけます。
 学問の神・道真公のもとで眠る、庶民教育を支えた人々の筆。それらにあやかり、合格や就職の祈願をする人は今も後を絶ちません。

 

菅原神社筆塚

 八橋本町四丁目の旧国道沿いにあります。境内には筆塚のほか、記念碑、句碑も数多く建てられています。
■問い合わせ 文化課TEL(866)2246

 

市章
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