2000年
8月25日号



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土崎空襲を語り継ぐ

20世紀最後の夏
土崎空襲を忘れまい

 昭和二十年八月十四日の終戦前夜。土崎は午後十時三十分ごろから約四時間にわたり、米軍機による激しい爆撃を受けました。日本石油秋田製油所を標的にしたもので、投下された爆弾は約一万二千発。製油所周辺は真っ赤に燃えあがり、亡くなった市民は九十二人、負傷者は約二百人を数えました。
 戦争の時代だったともいえる二十世紀。悲しい出来事は二度と繰り返したくありません。

 

戦争の悲惨さ、命の尊さを伝えたい
浅野喜代さん(76歳・土崎港南一丁目)

 昭和二十年八月十四日の蒸し暑い夜。日本石油製油所を目標にした土崎空襲は、多くの民家や民衆を道連れにしました。百キロ爆弾の直撃を受けふっ飛んだ家や防空壕。逃げまどう大勢の人たちまでも犠牲になった空襲でした。
 当時私は二十一歳で、妊娠六か月。従姉たちと防空壕に避難し、ズシーンと腹にひびく炸裂音と振動に、「この子を死なせてはならない」と、下っ腹を押さえ縮んでいました。恐怖でカチカチ震える歯を必死で抑え、時折遠のく爆撃音の合間に外へ出て見た星も、「あれも敵機か」と生きた心地がしませんでした。

 

親戚一家六人が犠牲に

 この空襲で、新城町(現土崎港西二丁目)の親戚一家六人が犠牲になりました。小学校六年生の少年は、爆弾の破片で尻から太股へかけて大きく肉がえぐりとられ、夫たちが戸板で土崎南小学校へ運びました。校庭の松の木の下は、血と汗にまみれたおびただしい数の負傷者や死者でいっぱいだったといいます。結局この少年は、満足な手当を受けることもできず十日後に死にました。医師も看護婦も不足し、薬品はマーキュロだけ、包帯もなかったと聞いています。
 また、少年の母や兄妹五人は直撃弾で家もろとも吹き飛ばされました。五人の遺体は確認できず、ハエが止まっている骨や肉片を誰のものかもわからないまま拾い集め、かめに入れ後日墓地に葬りました。
 爆撃跡には、片腕や足首からそがれた足が転がっていたといいます。赤ん坊を背負った若い女性が、爆風で衣類をはぎ取られ胴体真っ二つになっていたことも、翌年の八月になって初めて夫が話してくれました。

 

12時間早く戦争が終わっていたら

 「重大放送がある」と言われた八月十五日の正午。雑音の多いラジオで「天皇の玉音」を聞いても、敗戦と終戦を理解する気にはなれませんでした。もっと早く、十二時間だけ早く終戦の結論が出ていたら、「土崎がこのようなことにならなかっただろうに…」。怒りとやるせなさが胸にこみあげました。
 あれから五十五年、あの日、明日を知らずに失われたたくさんの命を思います。生きていて良かったという思いと同時に、「命の尊さ」やこの「平和」がどんなに多くの犠牲のうえに築かれ、どんなに多くの努力のうえに保たれてきたのかを、戦争を知らない世代へ語り継いでいかねばならないと思います。

 

今でも兄は6年生のまま
岩間重美さん(64歳・土崎港西二丁目)

 八月十四日、私は強制児童疎開のため土崎の家族と別れ、豊岩にいました。土崎の家には、祖父、両親、姉、兄が残っていました。
 父は勤務先の当直のため不在で、空襲が始まってからは、母と姉、兄の三人で防空壕に避難したようです。そして、空襲の切れ目に他の防空壕に移動する途中、近くに爆弾が落ち、兄は腹に爆弾の破片が刺さりました。母と姉は助かりましたが、兄は二、三時間後に亡くなったということです。
 私は土崎が空襲を受けたという話を聞き、嫌な予感を抱きながら家に帰りました。八月十六日の午後だったと思います。兄の火葬には間にあわず、兄の最後の姿を見ることはできませんでした。母は泣いていて、その後母から空襲の話を聞いたことはありません。
 兄とは、近所の子どもたちと一緒によく遊びました。兄は、いざとなれば気の強い、いわゆるわんぱく小僧でした。私の中では、今でも兄は小学校六年生のままです。
 戦争はもういやです。二十一世紀は戦争のない平和な世紀にしてもらいたいと思います。

 

平和へのメッセージ

平和な世界−地球−に
鎌田淑恵さん(大住小学校6年)

 信じられませんね。今、こんなに平和な土崎が空しゅうでおそわれ、たくさんの犠牲者がでたなんて…。このことを知ると、「自分だけが幸せならよいのではない」と、思うようになりました。
 今、日本は平和な国です。平和すぎるのかもしれません。ちょっとしたことでも人を殺したり、物をぬすんだり、昔の人の苦労を忘れているようです。
 土崎空しゅうについてのビデオを見ておどろきました。この土崎に一万二千ぱつものばくだんがおとされたというのです。たくさんの人を犠牲にしたと考えると、同じ地球にすむ仲間として悲しくなります。半日早く戦争が終わっていればこの犠牲はさけられたと分かると、くやしくてたまりません。
 私はいつかは戦争がなくなると信じています。私達もできるかぎり努力し、戦争のない地球にするためにつくしたいです。そして、みんなが助け合い、同じ地球にすむ仲間だと分かり合う人々がすむ、平和な地球になることを願います。

 

親から子に語り継ぎたい
土崎の「平和の碑めぐり」に参加した浅野さん(牛島東七丁目)のご家族

 母ひとみさん…自分が戦争を経験していないので、子どもに話して聞かせることができません。土崎空襲は自分も知りたかったし、子どもにも伝えたいと思い親子4人で参加しました。親から子へ、その子が親になってまた子へと、語り継げればいいですね。

 長女ちひろさん…土崎空襲は話に聞いていたけど、こんなに恐ろしいものだと思わなかったのでびっくりしました。戦争は二度と起こしちゃいけないし、幸せに生きるためにもないほうがいい。今日見たり聞いたりしたことを、友だちにも教えてあげたいです。

 


土崎空襲の記録です

『語りつぐ平和を(全13集)』
平和を語りつぐ秋田婦人の会/発行

 土崎空襲体験者の証言をまとめた文集です。数々の体験談で戦争当時の心情・状況が克明に再現されています。心の声をお聞きください。

 

『はまなすはみた』
佐々木久春/文 斎藤昇/絵 土崎港被爆市民会議/編集

 土崎空襲のいたましい記録の絵本です。尊い犠牲者の無念の叫びを伝え、平和を願う市民の声を表現しています。


●これらの本は市立図書館で借りられます  

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