2000年
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明治、大正、昭和、平成と、四つの時代にまたがる二十世紀もまもなく終わります。
今世紀は人類史上希にみる激動の百年でした。戦争と平和、そして技術革新や社会資本の整備によって、人々の暮らしは劇的に変わりました。
明治二十二年に誕生した秋田市も、今年で百十一歳。二十世紀と共に歩んだ秋田市の、この百年を写真とともに振り返ってみます。みなさんの心に残る場面はあるでしょうか。
![]() 藤倉水源地の工事風景。秋田市が水道工事に着手したのは明治36年。旭川上流の藤倉を水源として、千秋公園まで送水管を通す一大事業でした。総工費は約76万円。当時の市の予算は年3万円ですから、力の入れようが分かります。一般家庭への給水開始は明治40年10月 ![]() 明治38年9月、奥羽本線が全線開通。数万人の見物客でにぎわった秋田駅前の開通祝賀会。開通当時、秋田〜東京間は22時間あまりかかりました ![]() 大正14年6月、乗合自動車が初めて市内を走る。1区間の料金は7銭、初日の客は680人でした ![]() 昭和12年の八橋油田。広い田園地帯に林立する油井は壮観。前年には全国産油の70パーセント以上に達し「石油王国秋田」の名を高めました ![]() 雄物川放水路は、大正6年に着工し、22年の工事を経て昭和13年に通水しました。雄物川をまっすぐ海へ通す2キロあまりの放水路工事は、たび重なる水害の解消や秋田港の港湾整備の基盤を造るのが大きな目的でした。写真は昭和13年4月27日の通水爆破の瞬間 ![]() 昭和16年4月、土崎港町や新屋町などとの大合併を記念した大秋田市建設祝賀会 ![]() 昭和20年8月14日、終戦前夜の土崎空襲。目標となった日石製油所は全滅、死傷者多数。日本最後の被爆地となりました ![]() 千秋公園のお堀でスケートを楽しむ姿も(昭和31年) ![]() 官公庁団地として整備が進む山王地区。県庁は完成し、市役所は建設中(昭和38年ごろ) ![]() 昭和36年9月、秋季国体を前に秋田民衆駅が完成しました。鉄筋コンクリート2階建て、約6,300平方メートルで、それまでの秋田駅の8倍に。平成9年まで多くの市民・県民に利用されました ![]() 昭和36年10月、新屋割山に秋田空港が開港。これにより、秋田〜東京間は2時間で結ばれ、秋田も空の時代へ ![]() ![]() 昭和36年10月に開かれた秋田国体。市民の笑顔と親切、民泊家庭の温かいもてなしで、まごころ国体として好評を博しました ![]() 昭和49年1月から2月にかけての豪雪。2月10日には、秋田地方気象台観測史上最高の117センチの積雪を記録 ![]() 昭和58年5月26日の日本海中部地震。秋田市では震度5を記録し、道路や建物などに多くの被害がありました ![]() 戦後、駅前の商店街として賑わった金座街。写真は、昭和58年の取り壊し前の金座街「さよならセール」 ![]() 買い物客に親しまれていたアーケード式の大町名店街。大町地区の開発によって昭和60年に取り壊されました ![]() 平成9年3月、待望の秋田新幹線「こまち」開通。秋田〜東京間が最短3時間50分で結ばれました ![]() 秋田自動車道が平成9年11月、昭和町から岩手県北上市まで全線開通。一足先にスタートした秋田新幹線とともに、本格的な高速交通時代へ ![]() 平成10年3月、雄物川に架かる市内4本目の橋となる秋田南大橋が完成。3世代家族が集まり、盛大に渡り初め ![]() 平成12年4月、中高一貫校・御所野学院が開校。ゆとりある新しい教育を全国に発信 ![]() ![]() 秋田駅西口から仲小路方面へ、ぽぽろーどと大屋根が完成。より快適な歩行者空間が生まれました |
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